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全日本きもの研究会 きもの博物館

33. 加賀友禅

きもの博物館

 きものには様々なアイテムがあるけれども、加賀友禅の名を知らない人はいない。加賀友禅は高級な染物として知られ、『加賀友禅』イコール『高額品』というイメージが定着しているように思える。

 それでは加賀友禅とは何か、と言うことになると、加賀すなわち金沢で染められる友禅であろうことは名称より判断できるけれども、加賀友禅の特徴や歴史を知っている人は少ない。

 友禅染は十七世紀末、京都知恩院門前の扇絵師、宮崎友禅斎が考案したと伝えられている。糊糸目で防染する友禅染は、それまでできなかった緻密な染色を可能にする画期的な染色法だった。それ以後、友禅染は染物の主流となり今日に至っている。

 友禅染の産地と言えば京都が中心である。明治時代に入って考案された型友禅も含めて京都は染物のメッカである。織物の産地であった新潟県十日町市でも織物の需要が減少するのに伴って「きものの首都になろう」を合い言葉に染物の生産が増えているが、その歴史、生産量、質ともに京都には及ばない。

 京都で染められる友禅は京友禅と呼ばれている。そこで、加賀友禅と言えば加賀で染められる友禅と単純に受けとめてしまうけれども、加賀友禅には京友禅にはない特徴があり、京友禅とは一線を画すものがある。  京友禅も加賀友禅も宮崎友禅斎の考案した技法を用いている事にかわりはない。それでは加賀友禅の特徴は何だろうか。私の知りうる範囲の特徴とは次のようである。

1、加賀友禅は全て作家物で作品には落款が押されている。

 現在、加賀友禅と呼ばれる作品は、『加賀染振興協会』に登録された『手描技術登録者』の落款が押されている。落款とは落成款識の略で、もともと書画の完成の意を表わす署名捺印である。作者は固有の落款を持ち、自分の作品であることの証として作品に落款を押している。

 最近は京友禅にも落款が押してあるものも多くなってきたが、それらは作家個人の落款や工房の落款であったりする。しかし、協会に登録した落款のみを認めているのは加賀友禅だけかもしれない。

 加賀友禅の落款には実は深い意味がある。 友禅染は図案から始まり、下絵、糊置き、伏糊、地染め、蒸し、といった多くの工程を経て完成する。京都では、それぞれがそれぞれの専門職人によって分業されている。しかし、加賀友禅は一人の職人が図案から染色に至るまで作家本人が行なうので、その責任の証として落款を押すというのである。これは私が京都にいた時に聞いた話である。全ての工程を作家本人が行なうと言うのは現代では考えられないが、産地としての機能が京都ほど充実していない金沢では、全て一人で行なわなければならなかったというのはうなづける話である。

2、加賀友禅には京友禅にはない色彩、技法の特色がある。
 加賀友禅では加賀の五彩と呼ばれる蘇芳、黄土、藍、緑、黒が基調色として使われている。そして、これらの色は加賀の伝統工芸九谷焼の五彩に共通する色感を持っていると言われている。我々見慣れた者には加賀友禅は一目でそれと見分けられる程色調の傾向が京友禅と違っているのはこの加賀の五彩によるものである。又、外側から内側に向かってボカシを付けたり「虫食い」と呼ばれる病葉の表現なども京友禅にはない技法である。 一、金彩や刺繍は用いない。

 金糸銀糸の刺繍や金箔銀箔で飾る京友禅に比べて加賀友禅はそれらを一切用いない染だけの友禅である。豪華さを競う京友禅とは対称的に柔らかな感性が特徴である。加賀友禅には何故刺繍や箔を用いないのか。前述の如く加賀友禅は作者一人で製作したために刺繍や箔置きの技術を一人の作者が修得するのが困難だったから、と私は思っている。

 以上のような特徴を持つ加賀友禅だけれども、その歴史はいつ頃から始まったものだろう。

 友禅染を考案した宮崎友禅斎は一説には加賀あるいは能登に生まれ、京都に出て扇絵師として成功し、友禅染を考案し後年金沢に戻り晩年を過ごしたとも言われている。墓は金沢市小川町の龍国寺にある。その話からすると、京都で考案した友禅染の技法を故郷金沢に伝え加賀友禅になったのだろうと誰しも想像する。しかし、宮崎友禅斎については不明な点が多く、龍国寺の墓も偽物であるという説もあって本当の所は分からない。

 実は加賀友禅という言葉が世に出てくるのは明治以降である。明治以前の文献に加賀友禅の名称は見当たらず、大正以降という説さえある。宮崎友禅斎の友禅染考案以前、加賀には加賀染と呼ばれる伝統的な染物があった。それらは「梅染」「赤梅染」「黒梅染」とも呼ばれ、梅の樹皮を煎じた液で染めた無地の染物だった。

 そして江戸時代中期(1700年頃)になり「色絵」「色絵染」と呼ばれる友禅に近い彩色染物が現れる。これらの色絵染は必ずしもきものの柄として染められたものではなく、掛幅として染められた物も多く、「観音尊像」や「紫式部石山寺観月図」など数十点が今日に伝わっている。加賀染の掛幅は高度な技術で生み出され、鍋島藩が鍋島焼を藩の特産品としたように幕府や諸大名への贈答品として使われたと言う。

 これらの加賀染は今日の加賀友禅を生み出す土壌として十分なものであった。高度な工芸品は個人的技量や製作意欲だけで花開くものではなく、それらを育てる土壌が必要である。

 金沢は京都と並んで美術工芸が盛んである。それは金沢が一五八一年に前田利家が能登に封ぜられて以来、明治維新時の前田慶寧まで三百年に渡って前田百万石のお膝元であったことと無関係ではない。

 前田利家はもともと尾張国海部郡の小領主の息子。織田信長に小姓として仕え、実力を認められて直臣となり能登の領主となる。本能寺の変後、一時柴田勝家に従って秀吉と戦うが、後秀吉に従って功を認められ能登、北加賀を与えられて金沢城主となる。

 秀吉の死後、二代目の利長は母親(利家夫人お松の方)を人質として江戸に送り、関ヶ原の戦いでは東軍として北国の西軍と戦い南加賀二十万石を加増されている。戦国時代を通じて領内に安定をもたらした前田家の功績は文化を発達させる温床となったことは否めない。

 中でも五代藩主綱紀は美術工芸を奨励し、各地から名工を招いてこれを保護した。蒔絵、漆、紙、金具、絵、具足、象眼など20以上の部門に渡り技を競わせ、その秀作を百工比照と称して収集している。これらは元禄文化の美術コレクションとも言えるものである。

 元禄時代直前の天和3年2月(1683年)幕府より奢侈禁止令が出され、金箔、縫い、総鹿の子絞りの制限が行なわれ、工芸家にとっては受難の時代であったかもしれない。箔や縫いが制限された時代に生まれた加賀友禅なので金箔や刺繍を用いないのだろうか、というのは考えすぎだろうか。

 その後どのような過程を経て今日のような加賀友禅ができたのかは分からないけれども、加賀友禅が加賀(金沢)に生まれたのは偶然ではなく必然的に、言うなれば生まれるべくして生まれたと言える。そこには文化、工芸を大切にした前田家の努力が感じられるのである。

 私は加賀友禅と聞けば一つの作品を思い出す。私が努めていた京都の問屋のロビーに加賀友禅の額が掛けてあった。それは人間国宝加賀友禅作家、木村雨山氏の手によるもので、縦が役1.2m、横が約2mの大作だった。『花車』と題したその作品は会社を訪れる客を圧倒した。加賀友禅の額と言うのは珍しくはないかもしれないが、そのような大きな額は無いだろうし、まして人間国宝木村雨山氏の作品である。

 その問屋の創業者YS氏は戦後会社を起こし、良くあるような成功物語に支えられ一代で中堅問屋を築いた人である。その額が製作された当時、木村雨山氏はすでに人間国宝として名を馳せていた。YS氏は単身金沢に行き雨山氏宅を訪れ先生に面会を乞うたという。 「先生は御在宅ですか。」 余りの堂々とした態度に女中さんは先生の知り合いだと思い取り次いでくれたと言う。

 後はYS氏に押し切られた雨山氏が作品の製作に同意したのは言うまでもない。しかし、いざ製作の段となると着物を染める生地は幅が30cm 足らずで、1mを越えるような縮緬の生地は無かった。そこで風呂敷に用いる広幅の生地を探し出して染めてもらったと言う。風呂敷と言えども1mを越える正絹の生地は探すのが大変だったらしい。余りにも大きな作品に先生も相当に苦労されたそうである。その作品が果たして当時いくらで染めてもらったのかは興味のあるところだけれどもYS氏はついに教えてはくれなかった。

 絵画でも何でも芸術作品を見るとき、つい近くに寄って見てしまうものである。(私のような下賤な者だけかも知れないが。)雨山氏の『花車』を初めて見たときも近くにより舐めるように見てしまった。しかし、加賀友禅は(京友禅も同じだけれども)近くから見れば、唯の塗絵のようにしか見えない。糸目に囲まれた花弁かあたかも幼稚園児が色を塗ったようにさえ見える。雄蕊や雌蕊を一本一本細かく繊細に染めるでもなく大胆に染めてある。しかし、離れて作品全体を眺めてみるとき絵は生き生きとした『花車』となって我々の目を慰めてくれる。

 糸目に囲まれた一つ一つの色の調和が作品に命を吹き込んでくれるのである。その作品は私に「友禅とはこういうものである」と教えてくれたような気がした。今でも『花車』は問屋のロビーで私を迎えてくれる。

 前述の如く、加賀友禅の作家は「加賀染振興協会」に登録されている。その数は現在約250人。そして、その内約50人は女性作家である。昔は女性の加賀友禅作家はほとんどいなかったが、最近はその割合が増えている。女性の社会進出はどの業界も同じことで、染色界でも女性の役割は確実に増えている。重厚さよりも柔らかさを求める加賀友禅には女性の感覚の方が合うのかもしれない。最近の発表会でも女性作家の秀作が多い。今後女性作家が加賀友禅の伝統を守り継いでもらいたいと思う。

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