明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 続続きもの春秋

3. 室町通り

続続きもの春秋

 京都に室町と言う通りがある。業界の人にとって「室町」と聞けば呉服の問屋街と同義語である。東京の秋葉原や大阪の日本橋と言えば電気屋街。兜町、北浜と言えば株式の町を連想するように「室町」という言葉は呉服業界の代名詞でもある。

「室町の景気はいかがですか。」
  「最近、室町はさっぱりですよ。」
  「室町は全然品物が動かないんですよ。」
などと室町という言葉は呉服の卸業界のみならず、呉服の業界全体を映す鏡でもある。

 東京の呉服卸といえば日本橋である。中でも人形町、堀留町を中心として、浜町、富沢町、蠣殻町、小舟町には呉服、アパレル、テキスタイルとあらゆる繊維業が軒を並べている。しかし、室町はほとんどが呉服関連業種で、生産地に近いこともあり、室町の名は呉服業界では確固たる地位を占めているのである。

 業界以外の人たちにとって「室町」の名はむしろ室町幕府、室町時代を連想させるのではなかろうか。「足利尊氏は京都の室町に幕府を開き、室町時代と呼ばれる」という歴史の教科書の記述を覚えている人も多いだろうと思うが、さて足利幕府は室町のどこにあったのかと言えば意外と知っている人は少ない。

 京都は794年(延暦13年)に桓武天皇が遷都した平安京より続く千年の都である。平安京は唐の都長安を模して都市計画が進められ、東西南北に碁盤目状に道路を切ったのはご存じの通りである。

 北の中央に位置する内裏より南に延びる大通りが朱雀大路。東西に走る大通りは北から一条大路、二条大路と番号がつけられている。朱雀大路に平行に走る南北の大通りにも名前がつけられ、京極大路、西洞院大路、東洞院大路など今日でもその名が伝わっている。

 大通りに囲われた区画も更に碁盤目状の小路が走り、その一つ一つに風情ある名前がつけられている。室町通りはその南北に走る小路の一つである。

 京都の町を歩けば必ずしも平安京の町そのままではないことに気がつく。一条通り、二条通りは大路の名前だと先に書いたけれども、現代の感覚ではとても大通りとは言えない。四条通りや五条通りが大通りなのに比べると一条、二条通りはなんと狭い通りだと思えてしまう。

 現在の京都の大通りと言えば、南北では河原町通り、烏丸通り、堀川通り。東西では四条通り、五条通り、他には御池通り、丸太町通りである。平安京では小路だった通りが大通りになっているのは他にもある。

 一条通りや二条通りが大通りでなくなったのは道幅が狭くなったわけではなく、交通事情により他の通りの道幅が広くなったために他ならない。今ある大通りの幅が広がった理由は現代のモータリゼーションの影もあるけれども、大きな理由の一つに戦争中の建物疎開があった、というのは私が努めていた京都の問屋の先輩の話である。

 私の勤めていた問屋は五条通りにあった。今の五条通りは片側三車線、中央分離帯のある国道一号線である。滋賀県大津市から山科を越え、大阪に抜ける日本の大動脈の一部である。しかし、戦前は五条通りと言えども狭い通りだったと言う。

 戦争に突入し、日本の旗色が悪くなると全国主要都市が空襲の被害にあった。京都でもその対策を講じていた。古い木造建築の多い京都では一発の焼夷弾が京都中を火の海にしてしまう可能性があったので防火帯を造った。もっとも東京やその他の大都市の惨状を見れば、空襲を受ければ、どんな対策も無意味に等しかったかもしれない。

しかし、京都は空襲を免れた。文化財の保護という名目で空襲に会わなかったという通説もあるが、実はアメリカの原爆に関する計画、通称マンハッタン計画では京都もその標的の一つに数え上げられていた。もしもポツダム宣言の受諾がもう少し遅かったら京都も広島、長崎と同じ運命をたどっていたかもしれない。

そんな訳で五条通りは防火帯となり、一つ南の通りとの間にある建物は建物疎開として全て撤去された。京都全体で建物疎開の為取り壊された建物は1万3000戸にも及ぶと言う。当時、室町の番頭や丁稚も総出で建物に引っかけた綱を引っ張って家屋の取り壊しを手伝ったそうである。

 その防火帯は今日立派な国道になっている。御池通りや堀川通りもそうした因果で造られた大通りである。昔を知る京都の人達からは、
「しかし、あれがなかったら今日の京都の発展はなかったやろね。」
という言葉が聞かれる。昔のままの狭い通りでは車の増加に耐え切れなかったという訳である。大量の観光客、物資の輸送に京都の街はたちまち動脈硬化を起こしたであろうことは想像にかたくない。あるいは防火帯造りに名を借りて一気に都市計画を進めようという為政者の地政学的な判断があったのかもしれない。

 道幅だけではなく、整然と碁盤目状に走っていたはずの京都の通りが複雑に入り組んでいるところもある。

 平安京髄一の大道、朱雀大路は現在の京都に重ねあわせれば、山陰本線が真っ直ぐに北に走る丹波口駅から二条駅に沿ったあたりを通っていたはずである。千本通りという大通りが近くを走っているけれども、朱雀大路の名は見当たらない。二条駅の付近には朱雀小学校、朱雀中学校、朱雀公園の名が見えるのでこの辺りなのは間違いない。しかし、二条駅付近は道路が入り組み、袋小路やT字路もある。私も一度入り込んで迷ったことがあった。

 平安京は壮大な都であったけれども、実際に栄えたのは左京、すなわち朱雀大路以東だった。もともと平安京は大唐帝国の都長安城を手本として造られた。規模は面積にして長安城の3.4分の1だったとはいえ、国力の差を考えれば余りに大き過ぎた都だった。加えて狭い盆地にむりやり方形の都市を造らねばならなかったので湿地や丘陵にも道路を切らざるを得なかった。

 当時朱雀大路以西は湿地が多く、住居には適さなかったので左京が繁栄することになる。その為に朱雀大路以西の地は未開発のまま、あるいは寂れ、後年乱開発された為に道路が複雑になったのかも知れない 。

 話は遠回りになってしまったが、室町通りは千年の都に伝わる由緒ある通りである。ではその室町通りはどの辺にあるのだろう。

 京都駅を降りると北へ真っ直ぐに続く広い通りが烏丸通りである。その烏丸通りの1~2本西の通りが室町通りである。1~2本と書いたのには訳がある。1本西の通りと書きたいのだけれども、場所によっては間にもう1本の通りが走っている。四条五条付近では諏訪町、御池通りから丸太町にかけては両替町といわれる通りである。

 又、東本願寺に遮られて室町通りは途切れ、京都駅で再び途切れてしまう。しかし、室町通りは京都駅を越えて南に延びている。

 平安京の南の端は九条大路。東寺の南大門の前を走る九条通りは今も大通りだけれども、現在の室町通りはさらに九条通りを越えて南に向かっている。そして北の方も平安京の北辺であった一条通りを越え、さらに北に延びているのである。

 平安京では室町通りは左京の中心である西洞院通りの東側。朱雀大路には遠く、唯の一小路に過ぎなかった。しかし、前述のごとく都は左京に片寄り、内裏も現在の京都御所の位置に移る。そして室町時代、足利義満が室町に花の御所を造営するに至り、室町通りは実質的に都の中心を貫く小路となる。花の御所は現在の京都御所の北側、相国寺の西側、室町通りと烏丸通りの辺りにあった。

 南北に長い室町通りだけれども、我々が称する室町通り、すなわち呉服問屋の街は五条から丸太町あたりまでである。 私の勤めていた問屋は、烏丸通りの東側、すなわち室町通とは反対側にあったけれども、室町通にはよく通ったものだった。室町には白生地屋あり、仲間卸の問屋あり、また小売屋さんに頼まれて室町通りの問屋に届け物をすることもあった。

 室町通は北から南へ向かう一方通行の狭い通りである。当時(昭和60年頃)室町通は、車も人もいっぱいだった。配送の為のトラックが止まってしまうと、身動きが出来なくなることもあった。しかし、それでも「お互い様」なのだろうか。誰も文句も言わずに荷の積み下ろしが終わるまで黙って待っていた。

 狭い一方通行なので、自転車は便利な交通手段だった。荷台に風呂敷に包んだ反物を括りつけて、 「まいど、おおきに。」 の声がそこかしこにひびいていた。

 毎月、月初めは売り出しが行われる。各問屋の玄関には幟や垂れ幕が下げられ全国から小売屋さんが仕入れのために集まっていた。私も月端には担当する小売屋さんが店に来て貰える様に戦々恐々としていた。得意先の社長が他の問屋に姿を現したという情報が入れば、その問屋の前でお客様が出てくるのを待ち受けたり、早朝宿泊しているホテルの前で待ったりもしていた。

 そういった客の争奪戦とでも言える雰囲気が今では懐かしく思える。

 私が山形に戻り、今度は客の立場で室町を訪れるようになった。年に二、三度訪れる室町通は、何故か故郷を訪ねるように思えた。しかし、呉服業界が不況に陥ると、それを写すかのように室町通の活気は失せていった。

 数年前、久しぶりに室町通を歩いた時は、車がスピードを出して走っているのに驚いた。渋滞、のろのろ運転が当たり前だった室町通りである。そして、閉め切った店舗や張り紙のあるビル、空き地が増えていた。そして、かつて賑わっていた店舗の跡地は駐車場となり、他業種の店が増え、室町は室町ではなくなったようだった。

 どんな産業でも栄枯盛衰はつきものである。戦後花形産業と言われた石炭産業は、先日、太平洋炭鉱汽船の閉山でその幕を閉じた。

 明治以来日本の輸出産業だった繊維は中国その他の国に取って代わられてしまった。呉服と言う日本伝統の産業もその例外ではない。現代の日本人の生活様式を真正面から見れば、かつてのような室町の繁栄は望むべくもないかもしれない。

 しかし、呉服業界がいかに小さくなろうとも日本の伝統文化としてより健全に残ってもらいたいと思う。石炭山のように最後の山が閉山するといったようにはならないだろうし、してはならないものだと思う。

 『きもの春秋』『続きもの春秋』で再三触れてきたように、今までの呉服業界は決して健全だったとは言えない。水ぶくれした業界が不況の波によって一気に破裂して多くのメーカーや問屋、小売屋が倒産している。

 これからの呉服業界に携わる者は日本の伝統を受け継ぎ、後世に伝える使命を自覚しなければならない。そうして、室町がかつての賑わい以上に本当の意味で活気を取り戻してもらいたいものである。

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