明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 続続きもの春秋

22.芸人の衣装

続続きもの春秋

 私の息子も今年二十歳になった。成人式である。自分が成人の頃を考えるとずいぶん時が絶ったと思う。私はまだ青年のつもりでいるのだが、いつの間にか息子が二十歳である。二十歳の時分、五十歳はオッサンに見えたものだ。いつまでも自分が若いと思う方が間違いなのだろう。
 
 昨年の成人式の頃から息子も成人式を意識するようになった。自分が呉服屋の息子であると言う自覚があるのだろう。
「成人式の時には着物を着なくちゃならないんでしょ。」
言う言葉が聞かれた。その言葉に嬉しさも感じていたが、成人式が近づくにつれて言葉を濁すようになった。そして、
「成人式で着物を着ると不良に見られるんだよな。」
そんな言葉が飛び出した。  

 成人式に晴れ着で出席するのは当たり前である。日本人の男性が紋付で出席しておかしいはずはない。まして白眼視されるなどもっての外である。「きもの姿イコール不良」などという不文律が成り立つはずはない。息子の言葉の裏には昨今の成人式事情がある。
 
 最近はややおとなしくなったけれども、数年前頃の成人式は荒れに荒れていた。式場で酒を飲んで暴れる者、礼儀をわきまえずに騒ぎ出す者など厳粛であるはずの成人式はどこへ行ったのかと思えるほどだった。
 
 その様子は新聞テレビでも報道されていた。
 
 式場や街で騒ぎを起こすのは決まって紋付を着た若者だった。着物を着ていない若者の中にも非礼をはたらく者も多かったのだろうが、マスコミにとって紋付姿の若者の狼藉は格好の絵になるのだろう。
 
 そんなせいもあって息子も紋付を着ることを躊躇していたらしい。 私は息子に着物を無理強いする気もないし、首都圏で生活している息子にとって、当日帰らなければならない事も考えるとスーツ姿の方が動き易いと言う事もあった。
「無理して着物を着なくても、スーツで良いんだよ。」
と言うと、さすがに申し訳ないと思ったのか、
「着物を着て写真は撮るから。」
と、成人式前日に着物を着て写真を撮った。
 
 さて、当日成人式から帰った息子に式場の写真を見せてもらった。
 
 女性はほとんどが振袖だった。今は振袖もレンタルが増えていると言うが、それでも振袖を着たいと言う女性がこれだけいるのだから捨てたものではない。
 
 友人と撮った写真に紋付姿の男子がいた。
「これ○○君じゃないか。」
「そうだよ。あいつ着物着てくるとは思わなかった。」
 
 着ていたのは白い紋付、・・・私にはどうも違和感がある。元来、白装束は切腹の時の衣装、または死者を送る衣装である。

最近の成人式では白の紋付や黄色、ブルー、果てはピンクの紋付まで登場する。そして袴はラメや箔を使ったきらびやかなものである。  

 そう言えば、その類の紋付は成人式で無礼をはたらく若者の制服にも見えてくる。

 白やカラーの紋付イコール不良と決めつけるのは的を得ていないが、何故男子が派手な色の紋付を着るようになったのだろう。
 
 本来、日本の男性の礼装は黒紋付か色紋付と決まっていた。色紋付の色には派手な色はその範疇にない。紺や茶、グレーが主である。
 
 しかし、カラフルな紋付は目にしない訳ではない。それらの紋付を目にするのは、寄席やドラマの世界である。落語家が昔からそのような紋付を着ていたかどうかは知らない。しかし、テレビが普及したせいかも知れないが、芸人が尋常の着物と掛け離れた衣装を着ていたとしてもそれは非難するにあたらない。
 
 芸人の世界は、映画やテレビも含めて日常とは違う世界である。それは着物だけではない。芸人が裸同然の姿でテレビに登場しようと、それはパフォーマンスと言うのだろうか。彼らの職業人としての役目を果たしていると言えるかもしれない。落語家が色とりどりの着物で舞台に並ぶ様は雰囲気を盛り上げる一助となっているのだろう。
 
 そういう目で見ると、芸能界と言うのは実に不思議な世界である。
 
 かつて都はるみやこまどり姉妹、畠山みどりはいくつになっても振袖姿で登場していた。都はるみが六十歳になって振袖を着ているからと言って、それを見習い六十歳で振袖を着る人はまずいないだろう。
 
 私の知人の着付け師は石川さゆりの衣装を担当している。紅白歌合戦だろうと、どこの舞台でも石川さゆりについて歩き着付けをしている。
 
 彼女の話を聞くと、あまり目立たないけれども帯締めを斜めに締めたり舞台に生えるような着付けを工夫している。それは舞台によく映えている。
 
 しかし、普段街でそのように着つけたら、と思うと違和感を覚えてしまう。
 
 芸の世界が尋常と違うのはテレビやラジオの世界ではないようだ。

 以前、おどりの師匠に「笠森おせん」に使う赤い前掛けを注文されたことがあった。笠森おせんというのは美人で評判の町娘である。茶店で働くおせんが赤い前掛けをしてお盆を持って踊る。
 
 その踊りの発表会を見に行った時、どうも違和感を覚えた。おせんは塗の盆を持ち、それを鏡にして自分の姿を写し見るくだりがあった。
「師匠、茶店で輝くような盆というのはおかしいんじゃないですか。生地のお盆のほうがしっくりくるような気がしますが。」
 
 知らないと言う事は恐ろしい事である。私は踊りについては知らないので聞いてみた。
「踊りと言うのはそういうものなんです。」
 
 義経を慕って奥州に向かう静御前は打ち掛けのような立派な衣装を着ている。おどりの世界は尋常とは違った考証をしている。云われてみれば歌舞伎も全体的に考えればおかしいところもあるかもしれない。
 
 芸能の世界と日常は全く違った世界と思った方がよい。
 
 これはきものの世界に限らない。洋服でも同じである。
 
 テレビで赤や黄色のスーツ姿が登場するが全く違和感なく受け入れられている。しかし、日常赤や黄色のスーツを着ている人を見かけない。洋服の世界では、芸の世界と日常の区別は誰しも心得ている。

しかし、きものの世界ではその垣根がなくなり、成人式のようになってしまう。成人式でカラフルな紋付を着ている人達は、何の違和感も持たずに「きものはこんなもの」と思って着ているのだろう。

 洋服でも芸能人がテレビに出演する姿で街を歩いたらどうだろうか。ラメの入ったスーツや人の笑いを誘う服装など。とても恥ずかしくて着れるものではないと思う。

 しかし、きものではそのような姿で街を歩く姿を見掛けるのだが。

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