明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 続続きもの春秋

12. 工房訪問記『福村廣利、絵絞り庵』

続続きもの春秋

 辻が花の第一人者、福村廣利先生より突然メールを頂戴した。否、メールをくれたのは福村先生の御子息、健さんだった。

 福村先生については「きもの博物館26、辻が花」で述べているので参照していただきたい。

 私は消費者にできるだけ日本のきものを紹介したいと思ってホームページを開いている。それは業界の現状に対する不満からであり、消費者にきものの知識を提供して、きもの文化を正しい方向にやらねばと言う思いからである。

 私が掲載した内容について読者よりメールが寄せられる事度々である。そんな中で私が最も緊張するのは私が掲載した作品の作家や職人さんからのメールである。

 私は嘘の内容を掲載していないつもりである。しかし、小売屋の商品知識など、専門に染織に携わっている人から見れば、せいぜい小学生の工場見学の域を出ない稚拙なものに過ぎない。詳細に調べたつもりでも、経験と知識不足は否めない。まして、特定の作者の作品を紹介した文章については、技術的な事実の誤りや言葉足らずと言ったことが多々あると思っている。

 私の知識不足の文章が、作家や職人さんの名誉を傷つけてはいないかという思いは常に拭い去れないでいる。
「結城さんのホームページを見たのですが。」
という作家さんや職人さん、メーカーの人からの電話を頂戴すると、
「はい、何か間違った事でも書いてありましたでしょうか。」
と、真っ先に口について出てしまう。

「きもの博物館26、辻が花」の中で書いたことは、私が展示会で福村先生の話を元にしたものだった。先生にしてみれば、多くの人と話をしているので、私の事など眼中にはなかったはずである。自分が話した事が、他人のホームページの種にされているなど思いもよらなかったかもしれない。それだけに福村先生が私のホームページを見て、どのように思っているのかが心配だった。

 福村先生の工房でホームページを立ち上げた際、参考の為に「辻が花」を検索したところ、私のページが引っかかり、目に止まったと言うことだった。ホームページを立ち上げたのは御子息の健氏である。幸いメールの内容は、私の書いた内容を概ね肯定するものだった。

 その後、幾度かメールを交換し、京都に行く機会があったので工房を訪問した。  
 
 山形から京都までは飛行機で伊丹空港へ行くのが一番早い。九時十五分のJAIR機に乗れば、昼には京都に入ることができる。福村先生の工房には午後一時頃伺うと伝えた。飛行機はトラブルで遅れ、京都へは十二時半頃に入る。京都駅から電話をすると、車で迎えに着てくれるという。京都駅から地下鉄で終点の国際会館まで行く。

 京都国際会館は各種国際会議が開かれることで有名だけれども、昔は京都の郊外にあった。京都中心部から見ると、五山の送り火で有名な『妙』『法』の火を灯す西山、東山(八坂神社の背後にある東山とは別物)を越えた所にあり、近くには宝暦年間(十八世紀末)に貯水池として造られた宝ヶ池がある。

 今は京都の人口も増え、すっかり京都市街の一部となってしまったが、昔は市街地からは遠く隔たった郊外の僻地だった。しかし、古都京都では郊外の僻地はそれ相応の重い歴史を抱えている。大原、鞍馬、修学院、嵯峨、桂など、いずれも京都の僻地とも言うべき場所に深い歴史が刻まれている。

国際会館駅から1.5km北の岩倉には岩倉具視が幽棲した旧宅がある。そして、西へ三km行くと上賀茂神社がある。東へは1kmの所に三宅八幡神社がある。京都は少し足を伸ばせば歴史がごろごろ転がっている。

 さて、福村先生の工房は三宅八幡にあった。出町柳駅を始発とする叡山電鉄叡山線、三宅八幡駅のすぐ近くにあるという。

 国際会館駅を降りて地上に出ると健氏が車で迎えに着てくれていた。
 
 地下鉄の終点駅と言えども、国際会館での乗降客は多くはない。私が健さんとの待ち合わせの出口を出た時、乗降客はだれもいなかった。出口を出た所で私の胸ポケットの携帯電話が鳴った。健さんが私が迷っているのを心配して掛けてきた電話だった。電話は健さんのすぐ目の前で鳴った。お互い顔を合わせて、
「あれっ。」
それだけだった。初対面だったけれども直ぐにお互い探している相手だとわかった。それは携帯電話のおかげでも何でもなく、お互い心が通じ合っているからに他ならなかった。

 健さんは住宅地を走って福村先生の工房に車を走らせた。踏み切り近くの路地に入って、車を止めた。
「ここです。」
しかし、近くに工房らしいものは見当たらない。古い住宅地のようで、古い家が並んでいた。福村先生の工房はホームページにも出ていたので知っていたが、それらしいものは見当たらない。
 健さんが車の鍵を掛けて、
「こちらです。どうぞ。」
と案内されたのは、古い農家の納屋とでもいえるような建物だった。身を寄せ合うように建っている住宅の間の通路を指差して、
「ほら、ここです。ホームページでは広く見せるように隣の家を消しているんですよ。」
なるほどホームページでは隣の家が消してあるので、あたかも一軒家のように見えた。

 失礼な言い方かもしれないが、辻が花染の第一人者である福村先生の工房にしては少々みすぼらしかった。

 玄関を入ると、福村先生は奥の間で仕事をしていたが、いつもの愛想の良い表情で迎えてくれた。先生の記憶の片隅に私を覚えていてくれたようだった。

 奥さんもやってきて、
「いったい、どんな方がいらっしゃるのかとお待ちしていたのですよ。」
と迎えてくれた。
 考えてみれば奥さんや健さんとは初対面である。幾度かメールを交換しているとはいえ、面と向うのは初めてである。何とも不思議な世の中になったものである。
 工房の玄関には『絵絞り庵』の表札があった。

 辻が花染は絞り染である。久保田一竹氏が余にも有名になったために、氏の作品の代表的な柄である藤の花やつつじの花の柄が辻が花染と思われている向きがある。

 古来残されている辻が花の名品を見れば、藤やつつじだけではなく、兎、千鳥、蝶、蓮、そして家紋など様々な柄が絞りを用いて描かれていた事が分かる。

 もともと絞り染(纐纈染)は、絞りという防染法を用いて、その偶然性から描きだされる柄が特徴だった。鹿の子絞りや匹田絞り、嵐絞り、桶絞りなど、有松や鳴海の絞りのように幾何学的な模様である。

 鹿の子絞りを並べて柄を表現する事はあるけれども、絞りそのもので柄を表現することはなかった。辻が花染は絞りで柄を表現するという文字通り絵絞りである。玄関の『絵絞り庵』にはその意味が込められている。 

 先生はちょうど展示会に出品する作品を創っていた。白生地に一つ一つ、一見無造作に絞りながら柄を創って行く。

 先生の頭の中には出来上がった作品の柄がはっきりとあるのだろうけれども、私にはどんな柄のどんな色の絵絞りができるのかとんと分からない。

 しかし、先生の指先は休むことなく機械的に糸で生地を絞っていく。生地を絞る先生の表情は愉しそうにも見える。先生の頭にある作品の全体像から、あたかもジグソーパズルのブロックが順序良く手先に伝わり作品を創って行くようだった。

 先生は過去手掛けた作品を全てアルバムに納めている。分厚いアルバムの中には私がお目にかかった作品が幾つもあった。

 傍らで健さんが私と先生との会話を聞いていた。 私は少々意地悪と思ったけれども健さんに質問してみた。
「先生の作品を見てどう思いますか。」
 健さんはちょっと困った顔をして応えた。
「う~ん、ちょっと地味ですね。」
 その言葉を聞いた福村先生の顔には笑みがこぼれていた。自分の作品に対する自分の息子の評価である。少々恥ずかしかったのかもしれないが、その目の奥には健さんに対す期待が込められているのは言うまでもない。
 健さんは福村先生の跡を継ぐべく現在先生の許で作品を創っている。ちょうど私が訪問した前日まで京都の若手職人による展示会に作品を出品していた。国際会館から工房までの車の中でその事を尋ねると、
「ええ、昨日まで展示会でしたので、今作品を回収してきたところです。作品は後にあります。」

 工房で健さんの作品を見せてもらった。絞り染の時計と絞り染のランプシェードだった。時計は絞りで文字盤を染め、言わば辻が花の置時計である。ランプシェードは明りを灯すと妖しく光る。現代と伝統工芸の調和というのはこれからの作家にとっては避けて通れない命題かもしれない。福村先生の技術を伝承しながら健さんがそれをどのように組み立てていくのかも楽しみである。

 福村先生の工房を訪問した私の感想は、御子息健さんの言葉ではないけれども、
「う~ん、地味ですね。」
 それは私にとって自分自身をとても爽快にさせてくれるものだった。先生の創り出す柄が地味なのではない。先生の生活、人柄が地味なのである。質素な工房で黙々と創作を続けている。自分を喧伝することもなく、私のような人にでも偉ぶる事もなく気さくに教えてくれる。自分への評価は自分の作品のみに求めている。 私は現在の呉服業界に不満を持っている。それは、業界には「地味」が足りないのである。福村先生を見て如実にそう思えた。

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