全日本きもの研究会 続続きもの春秋
21.中高年の振り袖
先日、経済紙に次のような記事が掲載されていた。
『中高年の振り袖強化』
記事によると、某ナショナルチェーンが中高年への振り袖販売を強化するという。
「中高年が振り袖を?」
と誰しも思うだろうが、経済紙はこれを大まじめで報道している。さらに記事は次のように続く。
「中高年の(振り袖の)着用機会が増えている。」
「顧客の家を訪問して内容を説明する。」
「上村松園が振り袖を着て子供を抱いた母親の描いていることにちなんだ。」
振り袖はどのような人が着るものだろうか。既に何度も書いている事だし、きものを知る人ならば誰でも知っている。振り袖は成人式で着る着物。振り袖を着られるのは結婚するまで。それらは、ほぼ通説と言っても良いだろう。
しかし、
「秋篠宮妃、紀子様が結婚されて後振袖姿で国民の前に出られた。」
「都はるみが振り袖を着ている。」
「結婚しない女性はいつまで振り袖を着られるのか。」
等、振り袖論争は後を絶たない。
諸説はあっても、振り袖が若い女性のきものであるというのは日本人のコンセンサスといっても良い。
「では、いつまで。」
と云われると、その線引きがはっきりしない。
きもののTPOは、現代人のきものに対する知識不足が手伝って、TPOに線引きしようとする動きが顕著である。
「単衣は何月に着るのか。」
「絽のきものが着られるのは何時からか。」
「小紋は結婚式に着られるのか。」
等、その線引きをはっきりとさせれば安心して人の目を気にせずにきものを着られると言う訳である。
しかし、きもののTPOは客観的に線引きできるほど単純ではない。その場、その状況に応じて着れる着物は変化するし、何を着るかという形式的なTPOよりも、もっと大事なものが着物の使命としてあるはずである。
そういう意味で、振り袖も、
「何歳まで着て良いのか。」
という線引き論議は余り意味がないように思える。
しかし、振袖のTPOに線引きしないことは、振り袖を着る年齢の拡大解釈を擁護するものではない。大手ナショナルチェーンが中高年者に何故振り袖を売り込もうとしているのか良く考えなければならない。
「中高年者の着用機会が増えている」
というけれども、もともと中高年者が振り袖を着る機会があったのか。あるとすれば、どういう機会なのか示してもらいたい。私はそんな機会があるとは思えない。
「顧客に内容を説明する」
というが、何を説明するのか。中高年者に振り袖を勧めるのは、男性に訪問着を薦めるのと同義かと思えるがどうだろうか。
中高年者に振り袖を薦める根拠として、上村松園の絵を揚げている。私は絵画に詳しくはないけれども、次のようなことは言えると思う。
上村松園は、その絵で何を描きたかったのだろうか。
「振り袖を着るべき若い女性が子供を抱かなくてはならない悲哀」
あるいは、
「若くして母になった喜び」
あるいは、振り袖を着て子供を抱く若い女性のもっと複雑な心境を表しているのではないのだろうか。
少なくとも、どこにでもいるような母親の子供に対する愛情を描いたものとは思えない。芸術家はそれほど単純な心境を題材にしてはいないだろう。
上村松園の絵を引き合いに出して中高年者の振り袖販売の口実にしているのを見ると、以前結城紬の黒留袖を売り込みに来た問屋を思い出す。
結城紬の黒留袖は通常ありえない。しかし、その問屋は結城紬の黒留袖の拡販にやって来た。拡販の根拠として、古い結城紬の黒留袖が見つかったことを挙げている。昔実存していた結城紬の黒留袖なのだから大手を振って薦められると言う訳である。
確かに結城紬の黒留袖は実在したのかもしれないが、それは極例外的なものであっただろう。縮緬が手に入らない地方や時代、仕方なく染めたのかもしれないし、何か特別な用途に使われたのかもしれない。
上村画伯の絵にしても昔あったという結城紬の留袖にしても、例外を引き合いに出して販売拡大の口実にしているところが似ている。その拡販の対価として日本文化を破壊するということが判っているのだろうか。
いろいろと中高年者の振り袖について反論を書いてきたけれども、彼らの思惑は論争に値する物ではない。単純に振り袖販売の拡大が目的である。今までに手を付けなかった(手を付けてはいけなかった)中高年者に対して振り袖を売り込み、販売拡大を狙っているだけの話である。
ありもしない着用機会をアピールし、客を説得する。上村画伯の絵を盾に正当化する。 上村画伯はどう思うのだろうか。自分の絵が思いもよらない形で利用され、日本の文化を破壊してしまうことを。
商品の販売を拡大する為に新たな市場を創造する。これはビジネスとして正しい。
その昔、金持ちしか持てなかった電話は普及し、どこでも利用できるように公衆電話ができる。おかげで外に出ても電話ができるようになった。外にいる人間に連絡できるようにポケベルなるものができた。そして、ケータイは爆発的に電話の台数が増やした。そして、そのケータイは進化し続け、様々な機能が盛り込まれ拡販、買い替え需要を喚起した。
ビジネスの世界では誰しも新市場の創造を模索している。しかし、そのような拡販の手法と中高年者への振り袖とは全く意味が違う。日本の伝統文化を破壊してでも販売を拡大しようとするものである。
中高年者で自ら振り袖を着たいと思っている人に、私はあえてやめさせようとは思わない。自分の価値観を人に押し付けようとは思わないからである。思いつきのような拡販戦略に懸命な消費者が躍らせられるとは思わないが、着物の知識が希薄になっている現代、消費者が販売者の手練手管によって日本の伝統文化を誤って解する事を恐れている。
余り腹が立ったので興奮気味の文章になってしまいました。のべつ幕なしに振り袖を中高年者に売り込む事について読者のご意見を伺えれば幸いです。とりわけ当事者であるナショナルチェーンの企画担当者のご意見を伺いたいと思っています。
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