全日本きもの研究会 続続きもの春秋
18.宗教戦争ときもののTPO
「宗教戦争ときもののTPO」
何ともおかしげな表題である。宗教戦争ときものにどんな関係があるのか、とうとうゆうきくんは頭がおかしくなってしまったかと思うかも知れない。しかし、私は大真面目でこれを書いている。
宗教の争いは古今東西絶えない。今日も新聞を広げると、血生臭い宗教の争いの記事が出ている。
アメリカがイラクに侵攻して以来、中東のイスラム教徒の反感をかっている。自爆テロも絶えない。しかし、これは宗教戦争とは言えない。アメリカの物理的な抑圧に対する抵抗運動である。
宗教戦争とは、物理的な戦いではなく、教義を争う戦いである。今日イラクで起こっているスンニ派とシーア派の争いが宗教戦争である。
第三者の我々から見れば、同じイスラム教徒が何故争わなくてはならないのか、よけいなお世話かも知れないが、仲間割れせずに団結してアメリカに対抗する方が、と思ってしまうのだが、それ程単純ではないのが宗教戦争である。
スンニ派は代々のカリフを正等と認める宗派。シーア派はマホメットから数えて五人目のカリフであるアリーの子孫を正等とする宗派である。それだけの違いで何故それ程に対立し、争わなくてはならないのかと思うけれども、教義の争いは当事者でなくては分からない。
イスラム教に限らず他の宗教も古より血生臭い争いを繰り返してきた。
キリスト教はニケーア公会議でアタナシウス派を正等、アリウス派を異端とした。両派の教義の違いは、キリストが神であるかどうか、という事らしいが、私はキリスト教徒ではないので詳しくは分からない。以後、宗教改革の時に起った様々な宗派は、互いに相手を異端と罵り合い争っている。中でも再洗礼派に対するカトリック、プロテスタント両者による迫害は目を覆うばかりである。
インドではヒンズー教徒が彼らの聖地アヨーディヤにあるイスラム寺院を破壊し、シーク教徒がヒンズー教徒を殺戮した話は記憶に新しい。
我国は、と言うと歴史的な宗教戦争は余り見られない。織田信長の比叡山焼き討ちや石山寺本願寺の抹殺は宗教戦争ではなく権力争いの要素が強い。 仏教の導入を巡って争われた蘇我氏と物部氏の争いも権力争いの色が濃い。日本人は信心深くないのだろうか。
さて、話をきものに移そう。 きものを着る人が少なくなった原因の一つにTPOの難しさがある。
「難しさがある」と書いてしまったけれども、本当はそんなに難しくはない。洋服でも何でも難しさは同じなのだけれども、きものが日常生活に縁遠くなってしまったので、いざきものを着ようとすると、
「何を着て良いのか分からない。」
となってしまうのである。
普段はきものを着ない人でも、きものを着る時には、おのずからTPOに従わなくてはならない。誰も場違いなきものを着て恥をかきたくはないからである。
自分勝手に判断してきものを選ぼうものなら物笑いの種になってしまうかもしれないという恐怖感があるのだろう。
忠臣蔵で浅野内匠頭が勅使饗応の席で礼服を着用すべき処を、吉良上野介に熨斗目麻裃だと偽られて恥をかくという話がある。もっともこれは実話ではなくフィクションらしいが、公式の場で着るべき衣装を身に付けず、自分だけ他人とは違った衣装というのは貴族や武士ならずとも刃傷の遠因となってもおかしくないのは誰しも理解できるだろう。
結婚式など高尚な場でなくても、何気なく着たきものが、
「あなた、ここではそんなきものは着ていけないのよ。」
と、知らないオバサンに言われたと言うような経験話も何度か聞いている。
自分の着ているきものが正しいのか、その場に合っているのかを判断できない人はその拠所を求めることになる。着付教室の先生、呉服屋さん、いつも着物を着てきものに詳しそうな人、又はきもののTPOについて書いてある指南書など、拠所を求めようとするのは人の自然な心情である。
「着付の先生が良いと言ったから。」
「○○さんが良いと言ったから。」
「○○本に書いてあったから。」
と言った金科玉条を楯に安心してきものを着る。
聞くは一時の恥、とは良く言ったもので、分からない事は人に聞くべきであり自分が勝手に判断すべきことではない。何を着て良いのか分からない人、とりわけ初めてきものを着る人は他人に聞いたり、指南書で知識を得ることは大切である。
しかし、問題はこの先にある。
人に教えてもらって着物を着て行ったところ、他人の着物は違っていた、間違いを指摘された、という経験はないだろうか。反対に、皆自分と同じ様な着物だったけれども、着物を着慣れているはずの人が自分達とは違っていた、という経験はないだろうか。
いろいろと調べた挙句、間違いのない着物で行ったが、恥ずかしい思いをした、自分がみにくいアヒルの子だと感じたことはないだろうか。自分が教えられたTPOとは異なる人がいた、…ありそうな話である。
さて、どちらが間違っているのだろうか。TPOが全国共通で統一されていれば、どちらかが正しく、どちらかが間違っているはずである。しかし、多くの人はTPOを誤らぬように勉強している。
果たして自分が間違っているのか、それとも他人が間違っているのか、自分に教えてくれた人が間違っているのか、指南書に書いてあった事は嘘なのか。
「自分が習ったきもののTPOは絶対に正しい。これに反する事は間違っている。」
はて、何かに似てはいないだろうか…宗教戦争である。自分達の教義を良しとして他は認めない。それが宗教戦争の原因である。
宗教は人間にとって根源的なものであり、人類が文化を創造し始めた頃からそれに類する物はあっただろう。そして、世界中あちらこちらで生れたそれらの宗教は、民族、風土、習慣の違いから別々の道をたどり、異なった教義、価値観を持つようになった。
本来世界中のまじめな宗教であれば、その目的は同じ方向を向いているだろう。しかし、己の教義を守ることを良しとして、他人を認めないところに争いが生れている。
きもののTPOも同じことが言える。
きものを着難くしている原因である、
「何を着て良いのか分からない」
という陰には、
「他人に非難されるのを恐れる」
気持ちがある。しかし、その非難とは教義の違いの応酬のように思えてならない。
きものの仕来りには聖書やコーランのような絶対的な拠所はない。家元もいなければ成文化されたものもない。きものの仕来りは日本人が長年掛かって築き上げた慣習である。そして、その慣習は、世界中に様々な宗教教義がある様に、地方や家によっても異なるし時と共に変化もする。
山形のある地方では葬式の時、娘や孫娘は振袖を着て参列する。弔事には黒の衣装が一般的で、
「葬式に振袖など…」
と思うかもしれない。しかし、あの世に旅立つ故人に娘や孫の一番美しい姿を見せて送る、と言うのは理に適っている。
また山形の某名家では、
「一族が集まる時には必ず色無地」
と言う家訓があるという。質素倹約を旨とする代々の家訓である。
それぞれの家や地方で守り続けて来た仕来りは、それぞれに意味のある仕来りである。ちょうど、それぞれの宗教が教義を守り続けているように。
昔、狭い地域の中だけで生活していた頃とは違い、現代は全国の人が交流している。地域の慣習の違い、家風の違い、また着付教室の教義?の違い、呉服屋やきもの愛好者の見解の相違などが交錯する中ではじめて着物を着る人は戸惑い、時には何を着ても誰かに非難を浴びるという構図になってしまっている。
着物を着る意味、目的は本来形式的なものではなく、どんな地域の慣習であっても、その向う方向は同じはずである。結婚式では二人を祝福する為に、葬式では故人に弔意を表す為に衣装はその場に相応しいものを身につける。
しかし、本筋を無視して、きものの教義とも言える形式的なTPOだけにこだわり、
「あの人は正しい」
「あの人は間違っている」
となってしまっている。
宗教の本来の意味を考えれば教義や宗派の違いで争いなど起らないと思えるのだが、どうだろうか。
また、TPOを考える上で、呉服用語が曖昧であることも話を複雑にしている一因である。
私は多くのお客様にTPOについて相談を受ける。
「結婚式には何を着て行ったらよいのか?。」
「○○の場には何を着れば良いのか?。」
又、着物の合わせ方について、
「この着物にはどんな帯を合わせれば良いのか?。」
「小紋に袋帯を締めても構わないのか?。」等等…。
しかし、私はこのような問に答えるのを躊躇してしまう。下手に答えれば、私の答えが聖典の言葉の如く一人歩きしてしまうのを恐れるからである。
その理由の第一は、呉服用語は曖昧で難しく、簡単に物を特定できない。例えば、
「訪問着に名古屋帯を締められますか?。」
という質問では、質問する人の言う「訪問着」「名古屋帯」の定義がはっきりしない。
はっきりしない、と言うよりも訪問着には様々あり、名古屋帯もまた様々である。具体的に目の前にある「この訪問着に」「この名古屋帯」と問われれば答える術もあるけれども、言葉の上で訪問着、名古屋帯だけでは答えられない。全ての訪問着に全ての名古屋帯を合わせられる訳ではないし、全ての訪問着に全ての名古屋帯を合わせられない訳ではない。
きものの雑誌やその付録、また着付けの解説書にはきもののTPOを説明する表が良く見かけられる。
「振袖には丸帯か袋帯」
などと書かれているけれども、
「振袖に袋帯であれば全て合わせる事ができるのか」
と言えばそうではない。袋帯にも様々な種類があり、それらを一線で区切っていくつかの範疇に分類できるものでもない。おしゃれの袋帯から最高のフォーマル袋帯まで、連続的に連なるもので、
「振袖には○○袋帯は合わせられますが××袋帯は合わせられません」
と言うこともできない。
TPOを感覚的に受け止めず、形式的に受け止める人にとっては、きものの本質を見失ってしまう恐れが十分にある。
きものは一つ一つに個性があり、単純な範疇に分けられない。きものを単純に幾つかに分類して、
「○○と××は合わせられる。」
「結婚式に△△は着てはいけない。」
と言ったTPO論争を繰り返す人達の争いは尽きることがないだろう。
アフリカでは、原始キリスト教の流れをくむコプト教が、多数を占めるイスラム教徒と共存していると言う。互いに尊重し合い祝祭を祝い合っている。 他の教義を認め合い、共に本質を求めれば自ずと争いはなくなり本当の意味でのTPOが完成されるのではないだろうか。
しかし、気をつけなければならないのは、自分勝手な教義は認められないということである。TPOの本質を逸脱してはならない。自分勝手なTPOは、宗教の本質を逸脱した新興宗教の如くなってしまうだろうから。
信仰心の薄い日本人なればこそ、他人のTPOの誤りの粗探しはやめて本当のTPOを育てませんか。