全日本きもの研究会 続続きもの春秋
6. 下駄の鼻緒に関する力学的考察
「下駄の鼻緒は何故真ん中についているのか。」
そう言う疑問を持ったことがあるだろうか。
下駄の鼻緒は左右の中心についている。履き慣れている者にとっては当たり前のように思えるけれども、考えてみれば不思議である。鼻緒は足の親指と人差し指で挟む。五本の指の内側から一番目と二番目の間である。靴は左右鏡面対称で、右用と左用は違うけれども、下駄や草履は左右同じ形である。履きなれるうちに右用と左用が自然にできてくるが新品の下駄草履には右も左もない。
西洋草履と言える安価なつっかけサンダルには右左はないけれども、高級なサンダルには右左がある。人の足の形を見れば、むしろ右左の履物が違うのが自然である。
では何故、下駄や草履は右も左も同じなのだろう。
私は下駄草履の仕入れの為に浅草の下駄屋に足繁く通っている。下駄に限らず仕入れの為にメーカーを尋ねた時にはできるだけ専門知識を得ようと、いろいろな話を聞く事にしている。
「下駄は時々右左を替えて履くもんです。」
以前聞いた話である。下駄、特に歯下駄を永く履いている人は分かると思うけれども、下駄の底や歯は妙な減り方をする。履く人のちょっとした癖の成せる業なのだろうが、内側の歯ばかりが減ったり、外側ばかりが減ったりする。右左を取り替えて履けば減り方が平均化するという訳である。しかし、これは鼻緒が中心にある理由ではなく、いわば副産物である。鼻緒が中心にあるが故に左右の下駄を交換できるのである。
下駄屋の主人によれば、鼻緒が中心にあるのは次の理由である。
鼻緒に紐をかけて吊るしてみる。下駄は真っ直ぐに鉛直にぶら下がる。もしも、鼻緒が右に又は左にずれているとしたらどうなるだろう。同じように紐をかけて吊るせば下駄は重心をとるために斜めにぶら下がる。高校の物理の授業を居眠りをせずに聞いていた人ならば理解できる事と思う。
下駄や草履と靴との最も違う点は、足が履物に固定されていない事である。靴のように足と履物が一体になるのではなく、親指と人差し指で挟む鼻緒だけが足と履物を繋いでいる。歩けば踵は履物から離れるのが下駄、草履である。
鼻緒を挟んで前に歩けば歩く方向に加速度が加わり、前述の紐で吊るした時と同じ状態になる。(これも物理の授業の範疇である。)指で挟んだ鼻緒を中心として回転力が働き、右の下駄は左に、左の下駄は右に、すなわち内側に振れることになる。つまり、歩くたびに下駄は内側に振れ、時としては反対側の足にぶつかる事になるのである。
鼻緒が中心にある限り、緩い鼻緒で下駄らしくカランコロンと音を発てて歩いたとて、否走ったとて下駄は左右に振られることなく下駄と踵は同じ位置でくっ付いたり離れたりすることになる。下駄の鼻緒は力学的に考え抜かれた結果中心にあるようにも思われる。
下駄の先祖とも云える弥生時代の田下駄もやはり鼻緒は中心にある。田下駄は水田で足が沈むのを防ぐために使われたもので、後世の下駄とは目的を異にするかもしれない。しかし、田下駄であろうと下駄であろうと力学的に作用する力は同じである。
弥生時代の人々が田下駄を創る時に力学的な考察をしたのだろうか。万有引力の発見者(発見などしなくとも元から引力はあったのだけれども)ニュートンの生まれる1500年以上も前の事である。決してそんなことはなかっただろう。弥生時代の人達は自分達の最も使い易いように鼻緒を付けたに違いない。下駄屋の主人のいうような力学的に明快なウンチク等後で付けられたものである。
下駄や草履に限らず、現代の道具はデザインや見た目がもてはやされる帰来がある。
「斬新なデザインが一世を風靡して・・・。」
ということも良くあるけれども、デザインと使い勝手とは往々にして相反する場合もある。中には人間工学の立場から徹底的に使い勝手を研究して創れたデザインもあるけれども、そうでないものも目立つ。
数千年掛かって人間が体験して創ってきた使い勝手というものは、どんなに優秀な人間工学の学者が生み出すものよりも優れているのではないだろうか。