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全日本きもの研究会 きもの博物館

29. 人間国宝 宮平初子氏

きもの博物館
 昨年(平成十年)、沖縄の染織家宮平初子氏が人間国宝の認定を受けた。人間国宝というのは俗称で正式には重要無形文化財保持者という。しかし、一般には人間国宝の名で呼ばれている。「人間国宝」と言うと、何か人間の化石のようにも思えるけれども、国の宝はその人が持つ技である。

 宮平初子氏は大正十一年沖縄県首里に生れ首里に育ち、現在も首里に住んでいる。沖縄では、「首里の着だおれ、那覇の食いだおれ」と言われ、首里の人達は王朝の誇りを守っていると言われる。彼女も十五歳の時から本格的に沖縄の伝統的な織物を織り始め、今日までその技術の継承と、すたれかかった技法の復元に取り組み、首里に残る数多くの織物を伝えている。

 沖縄と言えば、最近はもっぱら米軍基地の問題が取り上げられるけれども、あまり馴染みがないかもしれない。太平洋戦争終結時の余りに悲惨な沖縄決戦の事実がそれ以前の沖縄の歴史と伝統への理解を曇らせ妨げているのかもしれない。復元された首里城や絵葉書にもよく登場する守礼の門は知っていてもそれを支える歴史に疎い人が多い。

 首里は琉球王朝の王府。十五世紀のはじめ、中山、北山、南山の三つの小国家に分かれていた沖縄は尚巴志によって統一され、首里に初めて統一政権が生れた。それ以来、首里は琉球の政治、文化の中心として栄えた。

 さしたる産業のない沖縄では、地の利を利用して十四世紀以来、日本、中国、朝鮮だけでなく、シャム、パレンバン、マラッカ、バタニ、アンナン、スンダなどの南海貿易を行なっていた。しかし、十六世紀に入り、ポルトガルが東洋に進出するとその利権は奪われ、明国との進貢貿易だけに頼ることとなった。

 戦後の日本がそうであったように、資源の乏しい小国が生きていく為に技術立国をめざしたのだろう。その為に沖縄には高度な織物の技術が発達していった。

 織物の話をする時、沖縄ははずせない。米沢で織られる絣を米琉(米沢琉球)と呼ぶように、沖縄はその源流とも言える所である。

 絣はインド西北部のラジャスタン地方に起り東西へ広まったと言われている。西はパキスタン、アフガニスタン、イラン、イラク、トルコを経てヨーロッパへ。東はベンガル湾沿いにビルマ、タイ、マレーシア、スマトラ、ジャワ、バリを経て最近独立した東チモール、西イリアンジャヤ辺りまで。そしてボルネオ、フィリピンを経て日本へと伝搬したと言われている。

 絣文化の分布がイスラム教国と重なることから、絣の伝搬はイスラム世界の拡大に深く関わっているという説もある。その絣はイスラム世界を飛び越えて、琉球列島をつたって日本に伝えられた。日本各地で今も織られている素朴な絣は、元をたどれば琉球があり、そのずっと先にインドのラジャスタンがある。絣の伝搬経路は海のシルクロードと言えるかも知れない。

 沖縄には琉球絣、花織、ミンサー、首里紬、花倉織、芭蕉布など、本島を離れれば久米島紬、宮古上布、八重山上布他数え切れない程の織物が有る。狭い地域の中にこれ程多くの織物を伝えている所は沖縄をおいて他にはない。それは各地で伝統的な織物が次々に姿を消す中、昔からの技法を大切に守ってきた努力の賜物と言えるだろう。

 さて、宮平初子氏は数多い琉球の織物の中でも特に首里の織物に力を入れている。代表的な首里の織物に、『首里花織』『花倉織』『ロートン織』がある。


 首里花織は紋織の技法の一種で、今は着尺や帯が作られているが、昔は身分の高い人しか着れなかった。花倉織は花織に絽や紗を市松模様に織り込んだもので、王家の夏のきものとして織られ、限られた人しか織ることが許されなかったという。ロートン織も裏表のない両面織で、士族以上の男性の着衣に用いられていた。  

  これらの織物は、永い歴史と技術によって織られたものである。全く知らぬ人が見ればただの布にしか見えないかも知れない。余りにも多くの商品や新技術が氾濫する現代、永い時を経て培われてきた技術とその産物は唯のちっぽけなものにしか見られなくなり、その事が日本全国に伝えられた織物が姿を消す原因にもなっているようにも思われる。

 宮平初子氏の織った織物が『国の宝』による物であることをその目で見ていただきたいと思う。

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