全日本きもの研究会 きもの博物館
62.江戸更紗
きものの名称の使い方は曖昧であると何度も書いてきた。今回の「更紗」もご多分に漏れず説明しにくい用語である。
「更紗とは何か」と言われれば、私も説明に一瞬戸惑ってしまう。同じ着物の染織である「加賀友禅とは何か」、「紅型染とは何か」と問われれば、直ぐにでも口を開けるのだが、「更紗とは何か」と問われると身構えてしまうのである。
しかし、お客様に、
「更紗の着物を見せてください。」
とか、
「更紗の着物はありますか。」
と言われれば、すぐさま棚から反物を取り出して、
「これが更紗です。」
と言えるのである。
更紗とは何か、と物の本で調べて見ると、
『文様染を施した布一般。ただし本来は室町時代末期以降、南蛮船によって舶載されたインド、ペルシャ、シャム、インドネシア産の文様染め木綿布。・・・』
説明はまだまだ続く。他の書物も参考にして、更紗とは何かと一言で言えば、次の様になる。
『更紗は、インドで染められた文様染の木綿布で、ペルシャやシャム(タイ)、インドネシア(ジャワ、スマトラ)に伝わり、それらが室町時代末期に南蛮船によって日本に伝わったものである。』
そう説明すれば簡単なようだけれども、それらインド、ペルシャ、シャム、インドネシアで染められる更紗には様々な染色法が用いられている。
手で描く法、木版型、銅版型、蝋防染、等である。蝋けつ染や絞り染、友禅染や茶屋染は特定の染色法によって説明できるけれども、更紗には包括的に更紗染と言える技法はない。強いて言えば先に書いた、手で描く法、木版型、銅版型、蝋防染それぞれが更紗染めの技法と言える。
従って「更紗染」と言うのは「柄の名前」と捉える方が良いように思える。では、
「更紗とはどんな柄を言うのか」
と問われれば、又返答に困ってしまう。
「これは更紗です。」
と特定する事はできるけれども、その特徴はと言えば、
「エキゾチックな柄で・・・、非常に緻密に柄が染められて・・・。」
と、しどろもどろになってしまう。
渡来した更紗の産地がインドをはじめとする南アジアであることを考えると、当然日本古来の柄とは違ったもので、それに日本人は魅力を感じたのである。
日本人は、他の文化を取り入れる達人である。古代より日本は中国朝鮮の文化を取り入れ、中世末期には南蛮より文化、科学技術を取り入れた。そして、明治維新後、アジアでは類を見ないほど迅速に欧米文化や技術を吸収し、欧米の植民地化を回避している。
染織の世界でも、鎌倉時代から江戸時代に掛けて中国から渡来した絹織物を名物裂として日本の文化に組み入れている。
更紗に魅せられた日本人は、その染色法を学んだかどうかは分からないが、日本独自の型染による「和更紗」が創られた。和更紗は絹布に染められて、着物の柄として今日に至っている。
和更紗は当初、堺、長崎、天草、鍋島で渡来品を模倣して創られていたが、次第に江戸で型染による更紗が造られるようになり「江戸更紗」と呼ばれるようになる。型染による更紗は数十枚の型を使って緻密に染められるもので、伊勢型を用いて染められる江戸小紋の存在と無関係ではないだろう。
江戸更紗を染める工房は少なくなり、作品も最近は余りお目に掛からなくなった。それでも江戸更紗は染め続けられている。
平山邦夫さんの工房「更紗工房ひらやま」では昔ながらの江戸更紗が染められている。
江戸更紗は非常に緻密で多色使いの染物である。模様ごと色ごとに型紙を使い、二~三十枚の型紙で重ね染をする。染料は色のバランスを考えて手造りしている。赤、黄、紫、藍、緑が基本色でそれらを合わせて色を創る。色を創るだけで半日以上の手間を要する。その染料を使って一枚一枚型で重ねて染めていくのは至難の業である。型は伊勢型を使っているが、中にはもう彫れない型もあるという。それらは平山家の宝物としている。
更紗に限らず、昔から染められてきた伝統的な染物の後を継ぐ人が少なくなっている。少ないながらも、是非次代に伝えていただきたいと思う。
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参照:「きもの博物館 62. 江戸更紗展」
参照:「きものQ&A 530. 更紗をきていける場所について」
参照:「きものQ&A 373. 更紗柄の訪問着での披露宴出席について」