明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 きもの博物館

9. 絞りのゆかた

きもの博物館

 ゆかたは夏の風物詩である。子供がゆかたを着て、線香花火を持つ姿は、まさに日本の夏の風景である。しかし、今はそのような風景は余り見かけられなくなってしまった。子供たちがゆかたを着なくなったわけではないけれども、頭に浮かぶ夏の風景は少し違ってきているようにも思える。

 世の中が豊かになり、線香花火程度で喜ぶ子供が少なくなったのか、それとも楽しみが増えたせいなのか、家族で線香花火を楽しむ姿は縁遠くなってしまったような気がする。

 線香花火を持つ子供の後ろに両親がしゃがんで、やはりゆかた姿で子供を見守っている。父親は藍染めの格子の柄のゆかたに、子供の目にはまな板に見える大きな柾の下駄。そして、母親は絞りのゆかたで塗りの下駄を履いている。

 子供の手の先から垂れ下がったこよりの先に火をつけると、こよりは勢い良く右に左に揺れ、やがて火の玉となって松葉のような火花が飛び散る。子供は次第にしぼんでいく火の玉を名残惜しそうに見つめている。

 そんな姿を思い浮かべるのは、自分がまだ日本人としての血脈を保っているからだ、などと思うのは私が呉服屋だからなのだろうか。

 絞りのゆかたは夏の風情を一際誘うものである。若い人は「巻き上げ絞り」や「手蜘蛛絞り」の大胆な柄のゆかたが、年配の女性には「疋田絞り」や「縫い締め絞り」の細く繊細な絞りのゆかたが良く似合う。

 呉服屋に育った私にとって、絞りのゆかたはとても存在感の有るものだった。店頭に並ぶ細い丸巻のゆかたの反物の中に、絞りのゆかたは目立って太く幅が狭い。手に取ってみれば伸び縮みしてバネのようである。子供にしてみれば格好のおもちゃである。絞りのゆかたを伸ばしたり縮めたりしていると、 「売り物だから伸ばすな。」
と叱られるのが常だった。

 絞りのゆかたと言えば『有松絞り』である。現在では有松の隣町である鳴海でも絞りが作られているので『有松・鳴海絞り』と呼ばれている。絞りという技術は天平の時代から纐纈染として各地で作られていた。それがなぜ『有松絞り』なのだろう。

 産業と言うものは今も昔も一カ所に集中するものらしい。スリッパは我が山形県河北町、タオルは大阪府泉州、またアメリカでは最先端技術の半導体はシリコンバレーというように。しかし、有松の場合歴史的な特殊な事情が有る。

 『有松・鳴海絞り』の歴史は次のようである。

 慶長十五年(1610年・徳川家康が征夷大将軍となって七年目)頃、有松に移り住んだ竹田庄九郎という人物が、名古屋城築城の為に来ていた者から絞り染の技術を学び、その技術をもって豆絞りの手拭いを作り『九九利絞』として有松で売り出した。当時、鳴海は東海道五十三次の宿場町で安藤広重も描いているが、広重が描いた鳴海宿の絵の題材は、実は隣町の有松の絞り染屋である。

 街道を往来する人達は絞りの手拭いをおみやげとして買い求め、次第に絞りの手拭いは有松の特産品となっていった。尾張藩はそれに目を付けて、尾張藩の特産品『有松絞り』として絞りの技術を保護育成した。藩では絞りを許可制として鑑札を交付し税金を課し、有松絞りは尾張藩の財政を支えた。

 その後300年間、徳川家の威光で有松以外での絞りは全面的に禁止され、有松は独占的に絞り染めを行なってきた。それゆえ技術的にも独占的に発達し現在に至っているのである。

 さて、絞りとはどんな染なのだろうか。絞りは纐纈(こうけち)と呼ばれ、臈纈(ろうけち)、夾纈(きょうけち)、とともに天平の三纈と言われる古くからある染色法である。

 染色の歴史は防染の歴史である。防染とは、読んで字のごとく「染めるのを防ぐ」方法である。すなわち、「いかにして染め分けるか」が防染である。布に染料で絵を書こうとすれば滲んでしまい、カンバスに絵を書くようにはいかない。

 友禅染の技法が創案されるまでは、きものに繊細な図柄を描くことはできなかった。臈纈は蝋を使って防染し、蝋けつ染とも呼ばれている。夾纈は生地を板で締め付けて防染する。そして纐纈は生地を絞って防染するので絞り染めと呼ばれている。生地を糸できつく縛り染料に浸け、染料が乾いてから糸を解けば、縛った部分は染料が滲み通らずに白く抜けるのである。

 単純な染め方ではあるけれども、絞り方を工夫することで、多種多様な文様を染めることができる。絞りの種類は、鹿の子絞り、三浦絞り、巻き上げ絞り、帽子絞り、桶絞りなど、その数は数十種類に及ぶ。

 縮緬生地を絞って創られた絞りの小紋や訪問着、振袖などは、ふっくらとした温かさを感じさせ、又生地の性質上、裏をつける事から秋冬向きのきものである。しかし、絞りのゆかたは逆に清涼感を与えてくれる。洗いざらしたような生地は風の通りが良く肌につかず涼しいのである。

 絞って縮んだ丸巻のゆかたを解き、洗濯機で洗い、物干し竿に、まるで蛇が絡みつくように干す。そして生乾きの生地を板に巻き付けて巾を出していく母の姿は、子供の頃の私の目に焼き付いている。そしてそれは、私には夏を迎える風景として脳裏に焼き付いている。

 絞りのゆかたは最近めっきりと減ってしまった。需要も減り、根気のいる絞り職人も少なくなってしまったのだろう。

 数年前、東京の問屋に行ったときに絞りのゆかたが山積みにしてあった。
「絞りのゆかたはまだあるんですね。」
と、私が感心して聞くと、
「いいえ、染屋がやめると言うので処分するんですよ。」
という返事だった。それ以来その問屋では絞りのゆかたは姿を消してしまった。

 私の店でも絞りを買い求める客は少なくなったとはいえ、絞りのゆかたを置かない訳にはいかない。八方手を尽くして入手しているけれども、扱う問屋が減り、扱っている問屋でもその数は次第に少なくなっている。

 有松の近くに有る西尾市の綿物の問屋(愛知県は知多木綿といわれる綿の産地で、周辺には晒や帯芯の問屋が多い)が来た時に聞いてみた。
「有松は今景気はどうですか。」
 呉服業界のみならず不景気の昨今、産地はどこでも不況に苦しんでいる。悪い答えを期待しているわけではないけれども、
「景気はどうですか」
という言葉は、商売人の間では半ば儀礼的な挨拶の定型句になっている。たいていは、
「どこも同じですよ。良いことはありません。」
という言葉が返ってくる。しかし、返ってきた言葉は意外だった。
「そりゃあ、あんた。有松は元気ありゃぁね。」(名古屋弁である。)

 聞けば、有松の絞りは悪くはないという。絞りのゆかたやきものの需要が減少する一方で、洋服での需要は十分に有るのだと言う。絞りのワンピースやドレスなど、きもの以外の分野で絞りは市民権を獲得しているらしい。

 そういえば、絞りを施した綿のワンピースやデザイナー物のスーツを見かける。しかし、有松絞りの良さを一番引き出せるのは、やはりゆかたではないかと思う。

 最近のゆかたはデザイナー物と称する現代的な柄のものが若者にうけている。しかし、プリントで完璧に染められた奇抜な色のゆかたは、私にはむしろ暑苦しささえ感じられる。藍染の絞りゆかたに本築のゆかた帯といった姿が少なくなるのを惜しむのは私だけだろうか。

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