全日本きもの研究会 きもの春秋終論
Ⅲ きものの常識・きもののしきたり ⅱきもののしきたりは誰が決めるのか
きものの常識、きもののしきたりについて考えてきたけれども、巷で言われている「きものの常識・しきたり」とは、その言葉の定義である『古くから決まって行われるやりかた。ならわし。慣例』『その時代や社会で一般人が共通にもっている知識、または判断力・理解力。わかりきった考え。ありふれた知識。』とは少々異なるように思える。
では、きものの常識・しきたりは何時誰が決めたものなのだろうか。まず次の二つの例で考えてみる。
まず、紗袷という着物がある。紗を二枚合わせて仕立てたもので、二重紗、無双などとも呼ばれている。染めた紗の生地の上に無地の紗を合わせたものが一般的で、二枚の紗によってできるモアレ模様が涼しさを感じさせてくれる。
この紗袷は何時着るべき着物なのか、よくお客様に聞かれる。素材は紗または絽なので冬のきものではない。では夏物か、と言われると袷であることから疑問を抱く人もいる。
私が初めてこの紗袷に出会ったのは、35年前問屋での修行時代である。この不思議な着物に出会い、将来自分がこの着物を売ることを考えて、いつ着るべき着物なのか、情報を集めていた。情報を集めると言えば大げさだが、先輩社員が小売屋さんに説明する会話、小売屋さんがお客様に説明する会話を耳をそばだてて聞いていた。
すると不思議なことに、
「紗袷は着る期間が非常に短いんです。単衣と薄物の間の一週間くらいです。」
と言う説明を聞いたかと思うと、
「夏場でしたら何時でも着れますよ。薄物と同じ扱いです。」
と説明する小売屋さんもいた。そして、もっと違う説を唱える人もいた。
「紗袷を着る時季についての包括的なコンセンサスは存在しない。」私にはこれは間違いないことと思えた。
更に調べてみると、紗袷が一般的に市場に出始めたのは昭和40年前後らしい。昭和40年以前に和裁を習った人は紗袷の仕立て方は習わなかったと言う。それ以後の人達は習っている。
紗袷は大正時代頃には花柳界で着られたらしいが一般的ではなかったのだろう。
そうだとしたら昭和40年頃現れた新しい着物のTPOはどのようにして創られたのだろう。そして、私が昭和50年代後半に聞いた様々な説は誰が言い始めたのだろう。
もう一つの例として、紬の絵羽(訪問着)について考えてみる。
紬の絵羽が市場に出回り始めたのは昭和50年代半ばの事だろうと思う。私が京都の問屋にいた50年代後半には大島紬の訪問着や西陣の紬訪問着が売り場に並んでいた。そして、それらは新鮮さを持って販売されていた。今までになかった範疇の着物として消費者に勧められていた。
それまでになかった紬の訪問着はいつ着るべき着物なのか。それはその当時から話題に上っていた。しかし、その話題は商品の売り口上でしかなく、はたして紬の絵羽にはどのようなしきたりがあるかといった議論では無かった。
もともと紬は普段着として着られてきた事は万人の認めるところである。それは常識として受け止められている。一方、絵羽と言うのは、フォーマルに着られてきたこともまた常識である。一部、江戸時代に絵羽のゆかたも創られていたようだが、絵羽はフォーマルの必要条件であった。
その普段着の紬をフォーマルの絵羽付けにするというのだから、受け取る側は混乱してあたりまえである。
紬の絵羽を創ること自体は悪いことでは無い。織物で縫い目を越えて柄を合わせるのだから大変な技術を要する。生産者のその努力には敬服する。
しかし、それとしきたりの問題は別である。紬の絵羽を創った人はどのような意図で創ったのか。どのような場で着ることを想定したのだろうか。
私が見る限り生産者ははっきりとしたTPOに関して確固たる意図があったとは思えない。目新しい商品を創って売り上げにつなげようという意図であったと思う。それ故に、その後消費者より「紬の訪問着は何時着るのですか」という質問が絶えない。
生産者がはっきりとした意図があったとしても、それはしきたりとは言えない。しきたりとは昔から人々が育んでくるもので誰かが提唱する物では無いからである。
私の店では紬の訪問着は扱っていない。お客様にいつ着たら良いのかはっきりと説明できないような商品を売るわけにはいかないからである。大島紬の訪問着ともなれば数十万円はくだらない。お客様の立場に立てば、大枚をはたいて買った着物がいつ着て良いのか分からないのは不本意であろう。
紬の絵羽はいつ着られるのか、売る立場の人はどのように説明しているのだろう。
私が問屋にいる時分、幾店かの小売屋で紬の絵羽を販売する様を見てきたが、その説明というのは百店百様であった。
「同窓会などで・・・」から「結婚式も出られますよ・・・」というようにセミフォーマルからフォーマルまで。また「いつでも着られますよ。おしゃれ着として・・・。」という人もあった。ようするにコンセンサス、決められたしきたりはないのである。
さて、ここできもののしきたりの話に戻そう。
きもののしきたりは昔からあった物だと思いがちだが、案外そうでない例はたくさんある。
その例として紗袷と紬の絵羽を挙げた。
紗袷、紬の絵羽、どちらも今後長い時間を掛けて本当のしきたりができてくるのだろう。新しく創ったものに、これがしきたりであると言った言い方は間違っている。
紗袷、紬の絵羽、どちらも巷で言われているしきたりは、販売の売り口上としてそれぞれがそれぞれに説いている程度のものである。そのような口上を真に受けて他人の着ている様を云々するのは滑稽としか言いようが無い。
果たして着物のしきたりは誰が創っているのか、よく考えてみなければならない。
着物の初心者の立場に立てば、まるで分からない着物のしきたりを誰かに教えてもらわなければ着物を着るのが不安でならない。それを教えてもらうのは、着物の着付け教室だったり、着物の指南本であったり、近所の着物に詳しい人だったりする。また呉服屋さんということもあるだろう。
そこで聞いたきもののしきたりは絶対に守るべききまりと捉え、それに反する着方はしきたりに違反する間違った着方だと思ってしまう。いや、それに従うしかないのだろう。
それでは、着付教室や指南本、呉服屋は正しいしきたりを伝えているのだろうか。私はそれらは決して間違っているとは思わない。しかし、それぞれが説いているしきたりは必ずしも統一しているとは言いがたいのである。
紗袷や紬の絵羽についての見解が違うように、それぞれが説くしきたりは微妙に違っている。それは地方による違いもあるし、それぞれが学んだ前の世代の人たちも見解を異にしていたせいでもある。
これをどのように捉えたらよいのだろうか。
着物の着付けに流派はないが、茶道や華道、踊りの世界には流派がある。流派の頂点には家元がいて家元の言うことが絶対である。その流派の人たちにとっては、家元の意向こそが絶対に守るべき物である。そしてその守るべき物は流派によってと異なっている。
例えば茶道の場合、茶道の流派はたくさんあるが、表千家と裏千家を比べてみよう。お手前の作法は両者微妙に違っている。袱紗の塵打ちでは表千家では音をたてるが裏千家では音をたてない。茶杓の茶を払う時、表千家は二度茶杓を茶碗に打ち付けるが、裏千家は一度である。他にも細かい点で流派の作法が微妙に違う。四十にものぼると言う茶道の流派にはそれぞれがそれぞれの作法がある。
さて、違った流派の茶人がお茶会で同席した場合どうなるのだろう。他の流派のお手前を見て、自分が習った手前と違うことをさして「あのお手前は間違っている」と言うだろうか。また言うことは許されるだろうか。
きもののしきたりもこれに似たようなところがある。
その場にあったきものを着てきた人達が、それぞれが習った着方と違うからとお互いに「その着方は間違っている」とののしりあう。そのことにどんな意味があるのだろうか。そしてそれよりも、そんな事が許されるのだろうかとさえ思えてくる。
本当の茶人は他の流派の作法も受け入れ、決して他の流派の手前を貶すような事はないだろう。そして、些細な作法は違っていても、もっと大きなもっと広い意味でのお茶の作法と言うものを共有しているに違いない。
「何のためにお茶をするのか。」「何のために着物を着るのか。」その原点に戻れば本当のしきたりが見えてくるような気がする。
私は、現在巷で行われている「きもののしきたり論争」には否定的である。否定的と言うよりも係わりたくないと思っている。
前項までにその論争の題材となるものを否定してきたが、それは決して「着物にはしきたりはない」と言っているのでない。むしろ「着物には厳然たるしきたりが存在する」と言うのが私の持論である。
それでは、私が考える「きもののしきたり」とは何か。
本稿の大題目は「きもののしきたりは誰が決めるのか」である。その答えは「日本人皆」である。「日本人皆」と言うのは今きものを着ている人達だけを指すのではなく、古来日本と言う文化圏が生まれた時から現代に至るまでの日本人全てである。
きもの(着る物)の形は縄文時代から今日に至るまで何度と無く変遷をたどって来た。古墳時代の衣装と平安貴族の衣装は全く違う。江戸時代の着物と現代の着物も違っている。
時代時代で着る物が違っているのならば、現代のきもののしきたりは現代人が決めるべき、と思われるかもしれないがそうではないだろう。
衣装の形は違っていてもその衣装を纏う真髄は、日本の文化と言う一本の鎖のように連関している。一つ一つの鎖は独立しているが、それらは前の世代としっかりと繋がり、たどって行けばはるか昔へと繋がっているのである。
話は抽象的になってしまったが、「日本の衣装のしきたりとは何か」という話に行き着く。
それは、前項の最後で述べたように「何のために着物を着るのか。」「何のために衣装を着るのか。」と言うことから始まる。
それは着る物の形式に係わらず「着る物」の意味に根ざすものである。
どの時代の着物でも晴れの着物があり普段の着物がある。その場その場で着るものを換えるのはどういう意味があるのだろう。
普段に着るものは「何でも良い」のであるが、そこには機能性が求められる。それと同時に消耗品としてのコストパフォーマンスも必要である。安価な素材で動きやすいものである。労働着であれば尚更のこと、機能性が求められる。
「着る物」には機能性や身体を保持する保温性など必然的な役割が求められるが、もう一つ大切な役割がある。それは、人とのコミュニケーションの潤滑油としての役割である。
「裸の付き合い」という言葉はあるが、通常人と合うときは「着る物」を着て言葉を交わす。人とのコミュニケーションは言葉を通して行われる。また、身振り手振りなどがコミュニケーションをスムーズにしてくれる。そして「着る物」はそのコミュニケーションにとってとても大切な役割を果たす。
コミュニケーションと言っても様々な場面がある。暇つぶしのお茶のみ話から商談、お見合いなど様々である。その時々の場面にとって最も相応しい「着る物」がある。
どの場面でどの着物が相応しいか、それが「きもののしきたり」の根源である。