全日本きもの研究会 きもの春秋終論
Ⅲ きものの常識・きもののしきたり ⅰ常識・しきたりとは何か
きものの世界では「しきたり」についてよく話題になる。しきたりを守るというのは着物の世界に限らず日常生活の中では当たり前である。それは日本に限らないだろう。どこの国でも守るべき「しきたり」があり、それは「常識」とも呼ばれている。
しかし、着物の世界では、それには特殊な意味合いがあるように思える。
何時どのような着物を着たら良いのか。それはTPOとも呼ばれ、洋服の世界でも守らなければならないしきたり・常識としてある。葬式に赤いワンピースで参列するのは常識に反している。格式の高い場で男性はネクタイやジャケットの着用を求められる。いずれも洋服の常識、洋服のしきたりである。
着物の世界ではどうだろうか。着物には格があり、留袖、訪問着、付け下げ、色無地、小紋、紬など、第一礼装から普段着まで段階が決まっている。そして、それに合わせる帯も丸帯、袋帯、名古屋帯、半巾帯と種類があり、その素材や織り方、柄によっても格付けがなされ、その組み合わせにもしきたりがある。
日本の着物では、それら形式的な格付けとは別に季節によるTPOがある。季節のしきたりに従って着物や帯を選ばなければならない。季節はずれの装いは、しきたり・常識に反する事になっている。
洋服の世界でも季節による違いはある。しかし、洋服の場合、季節の洋服は形状が異なり誰でも判断できる。半袖は夏物であることは視覚的に誰でも判断できる。同じように洋服の世界では、格によって形状が違う。スーツとワンピースは一目瞭然である。イブニングドレスとスーツもまた形状が異なる。
日本のきもののTPOが分かりづらいのは、「着物の形は皆同じ」ということに由来している、と言えなくもない。第一礼装である黒留袖と普段着である紬の着物の形は基本的に同じである。留袖に比翼が付いていたり、紬の袖丈が短かったり細部では異なるけれども、基本的には同じである。夏物の着物と言っても裄が短くはない。スーツとワンピースのような形状の違いはない。また、男の着物女の着物も基本的には同じである。
これらの事情がきものしきたり・常識を分かりにくいものにしているのは否めない。
しかし、きもののしきたり・常識はもっと人為的な理由で分かり難くしているのではないだろうか。
洋服でTPOに迷う人はそういないだろうと思う。着物を着ようとすると、何を着て行ったらよいのか迷った経験のある人は多いだろう。何が着物を着ようとする気持ちを迷わせるのだろうか。
迷うだけであれば良いが、迷う気持ちが着物を着るのを躊躇させることは無いだろうか。もしそういう事があるとすると何かが間違ってはいないだろうか。
果たして、しきたり・常識とは何なのだろう。
辞典で「しきたり」と引けば『古くから決まって行われるやりかた。ならわし。慣例』とある。また「常識」と引けば『その時代や社会で一般人が共通にもっている知識、または判断力・理解力。わかりきった考え。ありふれた知識。』とある。
きものの世界で言われる「しきたり・常識」とはそのような定義で計れるものなのだろうか。
しきたりについての話題は大きく分けて、「格のしきたり(TPO)」と「季節のしきたり(TPO)」の二つがある。
「あなた、この席にそんなきものを着て来てはいけませんよ。」というのが「格のしきたり」である。
「今の季節は、○○を着なければなりません。」というのが「季節のしきたり」である。
どちらも言われた事のある人は多いと思う。まず、「格のしきたり」について考えてみよう。
私も着物の世界を良く見てきたつもりだし、呉服屋としてお客様にアドバイスしなければならない立場でもある。
「来月○○が有るのですが、何を着て行ったら良いのでしょう。」と言うお客様の質問には的確に答えなければならない。お客様もそれを期待しているだろうし、着物の経験が少ないお客様にとっては神の声を聞くような気持ちかもしれない。
しかし、私は神ではないし100%正確に答えることはできないと思っている。それは何故か。きものの世界で言う「しきたり・常識」とは『古くから決まって行われるやりかた。ならわし。慣例』『その時代や社会で一般人が共通にもっている知識、または判断力・理解力。わかりきった考え。ありふれた知識。』とは違うように思えるからである。
きもののしきたりとは「古くから決まって行われるやりかた。」なのか、と言われれば疑問が残る。「格のしきたり」を良く観察してみれば、巷で言われているしきたりは、そう古いものではないことが分かる。
私が子供の頃、卒入式に着物を着てくる父兄(母親)は結構いた。彼女らが着てくるのは決まって色無地に黒絵羽織だった。訪問着や小紋を着てくる人が居たのかどうか分からないが、当時、色無地に黒絵羽織は常識だった。
しかし、わずか50年も経ずして黒の絵羽織は業界でも姿を消している。
「女性の正装では羽織を着ない」というしきたりも巷で通っている。しかし、前述の黒絵羽織もそうだけれども、更に昔戦前には女性の正装は縞御召に黒羽織だったそうである。
正装どころか「女性は羽織は着ない」と言ったことも良く聞いた。私が子供の頃、母や祖母は、お客様が着物を選ぶと必ず帯と羽織を合わせて奨めていた。「この小紋には、この羽織が良いでしょう。」と言う具合に。それがいつの間にか「羽織は着ない」事になってしまったらしい。そして、とうとう呉服の商品で「羽尺」が姿を消してしまった。それでも最近は又若い人が長羽織を着ていたりする。
「羽織を着る着ない」がしきたりだとするとおかしな話である。それは「しきたり」ではなく「流行」というものだろう。
「付下はどのような時に着るのですか。」と言う質問も良く頂く。もちろんお答えはするけれども、付下は昭和30年頃にできたものである。そして、付下の形式は当時とは大きく変わってきている。(「きもの講座2.きものの格について」http://www.kimono-yukiya.com/kenkyukai/kimonokoza/02.html参照)
50年足らずの間にその性格が大きく変った付け下げについて、それをしきたりの議論に持ち込むのはどうだろうか。
このような例は枚挙にいとまがない。
例を挙げればきりがないのでここまでにするが、着物のTPOは、いわばコロコロ変ってきたといえる。それは数十年単位ではあるが、『古くから決まって』いるものとは言えない。
時代と共変遷してきた、ということは悪いことではない。しかし、それは誰が決めたのだろうかという疑問は残るのではないだろうか。
時間軸に沿ってしきたりは変っている事実と共に、もう一つ空間の広がりによるしきたりの違いと言うものも考えなければならない。何かアインシュタインの論文のようになってきたが、そんな難しいことではない。地方により地域よりしきたりは異なるということである。
日本国内を見渡せば、地方によってしきたりは異なる。着物のTPOに限らずあらゆる儀式を考えていただければ分かると思う。結婚式、葬式など地方によって異なることは経験していることだと思う。
昔のように隣近所から嫁をもらう時代とは異なり、東北の人が四国や九州の人と結婚することも珍しいことではない。その地方地方で大切に守ってきたしきたりは違って当たり前かもしれない。その地方の気候、風土、歴史があるのだから。
さて、着物に限ってみても様々なしきたりが存する。
きもの春秋でも採算書いてきたけれども、山形のある地方では葬式の時に、孫娘は振袖で参列する。巷のTPOでは考えられないことかもしれない。
何故葬式で振袖を着るのか。祖父や祖母を孫娘はできるだけ美しい姿で送ることが故人への供養となるのだろうと私は考えていた。しかし、ある方の話によると、葬式で独身女性が振袖を着るのは「この家にはこのようなきれいな娘が居ます」と言うアピールの為だったという。コミュニケーションの少ない昔は、葬式は娘を披露する場でもあり、孫娘の行く末を心配する祖父母への供養でもあったという。
そのようなしきたりは筋が通っているし、聞かされれば誰しもうなずけることと思う。
しかし、このようなしきたりは山形でも珍しく、小さな地域に点在している。山形と言う狭い地域の中でも様々なしきたりが存在するのである。まして、日本全国では思いもよらないしきたりがあっても不思議でない。
地方や地域と言うコミュニケーションの単位ごとにしきたりは存在すると言えるが、もっと小さな家という単位でもそれぞれのしきたりは存在する。
「結婚式の時には黒留袖を誰まで着るのか」と言う話を聞く。
黒留袖は既婚の親族女性の正装だけれども、それでは誰が着るのか。母親は当然、祖母、兄弟も着る。それでは叔母は、となると意見が分かれるようだ。最近は母親しか着ない場合もある。そのルールはその家その家で決まっているように思える。
山形の商家で身内の結婚式では色無地しか着ない家がある。質素を旨としているのだろう。それはその家に長く伝わる尊重すべきしきたりである。
きもののTPOは時と共に、また地域により違っていると解釈するのが妥当ではないだろうか。
さて、もう一つのきもののしきたりである「季節のしきたり」はどうだろうか。
日本の着物は季節に敏感である。南国で一年中アロハシャツと言うのとは違い、季節によって微妙に着るものが変る。
季節により袷、単衣、薄物と変り、柄も季節によって選んでいる。何故日本の着物は季節に敏感なのか。そしてそれは何がそうさせたのか。
それは、四季がはっきりしているという日本の気候が係わっていることは否めない。そして、日本人はその季節の移り変わりを生活に取り込み、生活をより豊かにしてきたという背景がある。
衣装のみならず、食べ物、住まいでも同じである。旬の物を口にして季節を感じ、季節に応じて簾をしつらえたり炬燵を掘って季節に合った住まいに変える。日本人と季節は切っても切れないものがある。
季節のTPOは其処から生まれてきたものである。決してTPOが先にあったわけではない。
さて、季節のTPOは、袷→単衣→薄物(夏物)→単衣→袷のサイクルで変るのはご承知の通りである。そして、その時期は、袷が10月から5月、単衣が6月と9月、薄物が7月8月と言われている。
袷から単衣に変れば、「いよいよ春本番」と言う感じがし、薄物になれば「夏だなぁー」と感じる。袷になれば、「だんだん寒くなるな。」と思える。人の装いを見て季節を感じるのも日本の着物の良さかも知れない。
しかし、教科書通りのTPOは困惑をもたらすこともある。
地球温暖化のせいばかりではないけれども、春夏秋冬気温は連続的に変化するとは限らない。夏は暑く冬は寒いことは誰でも知っているけれども、4月でも30度を超える日もある。6月でも冷たい雨が降る日には20度を下回ることもある。冬だからと言って寒い日ばかりが続くわけではないし、夏は暑い日ばかりとは限らない。
どちらかと言えば地球温暖化のせいか平均気温は上がっているように思える。
5月の暑い日に袷の時期だからと言って汗を流しながら袷の着物を着ている人を良く見かける。聞いてみると、「まだ袷の時期ですから。」と言う答えが返ってくる。
着物のTPOのサイクルに従うのは大変だな、と言う気もしてくる。
この季節のTPOは着物のしきたりなのだろうか。そうだとしたら何時頃からそう決まったのだろうか。それは『古くから決まって行われるやりかた。ならわし。慣例』なのだろうか。
着物の歴史を紐解いてみる。確かに日本には衣替えの風習があり、季節ごとに着る物を変えていた。
日本の伝統を色濃く残す京都の舞妓さんは、年に4回衣替えをする。袷、単衣、薄物に含み綿という要素を取り入れて季節をより細かく表現している。
ふくみ綿と言えば、綿入れという着物がある。綿入れと言うと綿を入れた半天、綿入半天を想像するかもしれないが、昔は長着にも綿を入れていた。お客様に古い着物を見せてもらったら綿入れの振袖があった。北日本ならではかも知れないが、暖房の完全でなかった昔は綿入れで寒さから身を守ったのだろう。
そうすると昔は、袷、単衣、薄物の他に綿入れもTPOのサイクルに入っていたかもしれない。
季節によって着るものを変える、と言う大前提は昔からあったにしても、綿入れの例を見れば分かるように時代と共に微妙に変化してきたようにも思える。
古来日本人は、着物と季節をどのように受けとめてきたのだろうか。
古来とは言っても、縄文時代や奈良時代は言うに及ばず、平安時代や室町時代も現代の着物とはかけ離れていただろうから、現代の着物の原型と言えば江戸時代であろう。その意味で、江戸時代の人達がどのように季節を感じていたのかが現代のきもののしきたりを知る上では重要だろう。
江戸の直前、戦国時代に日本に渡って来たイエズス会士ロドリゲス・ツヅがその著書「日本教会史」に、当時の日本の風習を事細かに書いている。
私は日本の文化を知る上で、外国人の書き残した資料はとても重要だと思っている。彼らは始めて見聞きする日本の文化風習を驚きの目を持って事細かに観察し、客観的な目で見たことを書いている。
同じイエズス会士であるフランシスコ・ザビエルやルイス・フロイス。シーボルト、明治時代のイギリスの旅行家イザベラバードが、またイギリスの写真家ハーバート・ポンティングが見事なまでに当時の日本の様子を我々に書き残してくれている。
中には、現代日本人が忘れ去っていること、己の文化を誤解していることなどを解き明かしてくれている。
さて、話はそれてしまったが、ロドリゲス・ツヅは日本人の衣更えについて次のように書いている。
『日本人およびシナ人の間における主な訪問は、一年の四季、すなわち春夏秋冬に、それぞれの時季の一定の変わり目において行われ、季節と習慣に従い、その季節にあった別の衣類に着更える。それは、それぞれの季節における自然の気候に応じて、単衣を多くしたり少なくしたりするのである。
身分の高い人か同輩の者かを訪問する場合は、常にその季節に用いられる衣類を着てゆくのが、たとえ他の衣類の上に着るにしても、よい身だしなみであり、礼儀にかなうとされる。これを下に着ては使い途が誤っている。
夏季、それは日本人の間では、六月(陽暦)にあたる第五の月(陰暦)の五日(端午)に始まって、第八の月の最後の日、すなわち九月までの四ヶ月間であるが、その間は単衣すなわち帷子catambiraを着る。秋の初めに当る第九の月の最初の日から、同じ月の八日まで、袷avaxeと呼ばれる裏地をつけただけの衣類を着る。そして、第九の月の九日(重陽)から、次の新年の第三の月の最後の日まで、すなわち十月から三月までの、秋の一部と冬全部と二月の五日(立春)に始まる春の一部とを含めた間は、詰め物をした衣類を用いる。第四の月の一日から、六月にあたる第五の月の五日 - この日に単衣を着始める - までは再び袷avaxeすなわち裏地をつけただけの衣類を着る。そしてこれらの儀式はきわめて正確に守られる。』(ジョアン・ロドリゲス著 日本教会史 岩波書店より)
この文章からは次の事が読み取れる。
① 日本人は季節によって衣装を正確に更える。
② 着物の種類は三つあり、単衣、袷、詰め物をした衣類(綿入)。
これらは十分にうなづける。①は現代のきもののしきたり(と言われるもの)に通じている。②は現代とは違い、薄物がなく代わりに詰め物をした衣類が入る。現代の薄物が単衣にあたり、単衣は袷、袷は詰め物をした衣類にあたる。
しかし、私は冒頭の文章に注目している。
『身分の高い人か同輩の者かを訪問する場合は、常にその季節に用いられる衣類を着てゆくのが、たとえ他の衣類の上に着るにしても、よい身だしなみであり、礼儀にかなうとされる。これを下に着ては使い途が誤っている。』とはどういう意味だろうか。
ロドリゲス・ツヅは、当時の身だしなみとして、その季節の衣類を他の季節の衣類の上に着る場合があると言っている。
つまり、単衣の時季に袷の着物の上に単衣の羽織を羽織る、または袷の時季に単衣の着物の上に袷の羽織を羽織る場合があったと言うことだろう。
私は次のように解釈する。
日本では暦に従って正確に着る物を変える。しかし、暑い日もあり寒い日もある。そうした場合、公式の場(身分の高い人か同輩の者かを訪問する場合)では上に着る物だけをその季節に用いられる着物を着れば礼儀に反しない。そして、その反対は礼儀に反する。
当時の人間は、季節の衣類を厳格に守る一方、暑いときには涼しく、寒い日には暖かく着る術を身に付けていたのではないだろうか。そしてそれは公式の場に限っていたのではないだろうか。
思うに暑い日に暑い衣類を着、寒い日に寒々とした衣類を着る人達が世界中にいるだろうか。昨今の着物姿を見るに、袷の時季だからといって汗だくになっているご婦人はさぞ着物を着ることに嫌悪感を抱くだろうと心配になるのである。
さて、実際に市民は季節に対してどのように衣類を着ていたのだろうか。
上述した例は、サムライの例である。つまり身分の高い男性のしきたりである。女性も高位の人達、殿中の人達や奥女中などは凝りに凝った季節の衣装を身に着けていただろう。しかし、一般の庶民はどうだったろうか。
江戸時代、一般の庶民も季節を感じ、季節を楽しんでいただろうことは想像に難くない。庶民の間でも単衣→袷→綿入れといったサイクルがあっただろう。
「今月は衣替えだな。単衣を出しておいてくれ。」と言うような会話が長屋から聞こえてきたかもしれない。しかし、庶民が普段着として着物を着る場合、厳格に着替え、そして他人の衣装を批評したりしただろうか。
単衣の時季でも季節はずれに寒い日は、「おい、今日は寒くて堪らんな。もう仕舞っちまっただろうけど袷を出してくれよ。寒くって風邪ひいてしまう。」と言った会話も聞かれたのではなかろうか。
日本人は身分の高い人から庶民まで季節感を大切にしていたことは間違いない。その為に衣替えの時季を決めて、それに従って着物を換えていた。皆大方それに従っていたとは言うものの、それを厳格に守っていたのは言わば儀式などの公式の場であり、公式の場であっても最低守るべきものは上に着るものであり、無理に上から下まで着ていたとは限らないのではないだろうか。
現代巷で言われている着物のしきたりは、季節によって厳格に衣替えしなくてはならないかのように言う向きがある。しかし、身を守る衣装として着物を考える時、余りにも不自然ではないだろうか。「暑いので中に着る着物は単衣に」「寒いので襦袢を袷に」と言ったことは季節に対する十分すぎるほどの配慮である。
「5月は袷の時季だから袷を着なくてはならないが、袷では暑くてたまらないから洋服にしよう。」
そういう会話がでるとしたら、洋服は合理的で和服は非合理的であることを示している。和服はそれほど非合理的なのだろうか。それほど非合理的な衣装を我々日本人は古来身に纏ってきたのだろうか。
現代の着物のしきたりは本来あるべきしきたりとはかけ離れてきているように思える。