明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 きもの春秋終論

Ⅴ 呉服の常識と言われていることは常識か? ⅲ良いきものの証

きもの春秋終論

 きものを着る人は誰でも良いきものを求めたいと思っている。きものに限らず買い物をする人はより良い商品を求めている。

 牛乳を買う時、より良い鮮度のものを求めるために棚の奥にある牛乳を引っぱり出したりするのは私だけではなかろう。牛乳パックには賞味期限が刻印されている。牛乳だけではなく食品一般、消費者はより賞味期限の長い商品を選ぼうとする。

 それが為に賞味期限の迫った商品が廃棄される、と言った食糧事情にとっては悲劇が生まれているが、消費者がより良い商品を求めることは悪い事ではない。

 では、きものを選ぶ際、消費者は一体何を頼りにより良いきものを選ぼうとしているのだろうか。牛乳パックの賞味期限の刻印を確かめる如く、きものの何をもってその判断材料としているのだろうか。

 実際にきものを選ぶ時には、様々な観点からきものの良し悪しを判断する。同じ牛乳であれば賞味期限で選ぶといった単純な選択にはならない。私も長い事きものを商ってきた。問屋の修行時代にはよその商売も数多く見てきた。その中で、消費者がどのような事を判断材料にしているのか分かっているつもりである。以下、その一つ一つを解析してみたい。

①価格

 価格を良いきものの判断材料としている人は多いだろう。「価格の高い商品は良い商品」と言う判断である。

 確かにこの道理は一脈ある。どんな商品でも高い物は良い物、と言うのが一般的である。良い商品は高価な材料を使い、高度の技術によって創られている。従って価格は高価になる。しかし、この道理が消費者の目を曇らせる一因ともなっていることを忘れてはならない。

 きものの価格形成については繰り返し繰り返し述べてきた。仕入れの仕方、販売の仕方によって小売り価格は数倍の差が出るのである。A呉服店で10万円のきものが、Bでは30万円という事は珍しくない。全く同じ商品で30万円の方が良い商品ということはない。しかし、他よりも高額で買ったきものを、それだけの価値があると信じ切っている消費者もいる。

 かつてバブルの頃、アパレルの関係者が次のような事を言っていた。

「今、安い物は売れませんよ。毛皮なんか安く(値段を)付けると売れないんです。高く付けると飛ぶように売れるんです。」

 バブルの時代、「高ければ良い物」の信仰が絶頂だったのかもしれない。しかし、消費者の心理を良く突いている。バブルが去った今日、他の多くの業界では
「商品価格が高ければ消費者が良い物と判断して購入する。」
と言うような方程式はもう通じてはいないだろう。しかし、呉服業界ではまだまだ通用しているように思える。

「良い商品は高価である。」
これは、業界の如何を問わず真である。しかし、
「高価なものは良い商品である。」
とは言えない。数学的に言えば、必要条件十分条件の関係である。

 きものを購入するにあたっては、
「高価に売られているきものは、必ずしも良いきものではない場合もある。」
という事を頭に入れておかなければならない。

②箱入れ、桐箱

 呉服に限らず、日本の文化には(日本だけではないかもしれないが)、大切なものは箱に入れる、特に大切なものは桐箱に入れる、と言う慣習がある。

 お菓子は袋にバラ詰めするよりも紙箱に入れた方が体裁が良く、より高級感がある。茶の湯に使う茶碗は高級なものは桐箱入りである。より高級(高額)な茶碗は四方桟の桐箱に、そこまでではない茶碗は二方桟の桐箱に入れられる。それより安い物は紙箱に入れられたりもする。

 四方桟の桐箱を見ただけで、
「高価な名碗が入っているのだろう。」
と想像してしまう。

 さて、呉服の場合、袋帯は箱に入っている場合がある。私の店でも袋帯を仕入れるとボール箱に入って来る場合と透明のポリプロピレン(OPP)の袋に入ってくる場合がある。

 どういう帯がボール箱に入ってくるのかと言うと、高額なものが多い。しかし、織屋によっては、価格に関わらず織屋の名前が入ったボール箱に入れてくる処もある。また、安価な帯でも帯の名前が印刷された立派な桐箱に入ってくる物もある。

 しかし、仕入れではなく問屋から帯をたくさん送ってもらった時には高額な帯でもOPPの袋に入ってくる事もある。

「箱入」「桐箱」と言う文化は、物をより大切に保存するといった動機から起こったものと思うが、果たしてそれを逸脱している例が見られる。

 以前、お客様同士の会話で次のようなものを聞いたことがある。

「箱に入った帯は良い良い帯なんだって。」

 消費者が帯の良し悪しを一目で判断するのは難しい。帯の良し悪しを判断する拠り所の一つが『箱入り』なのだろう。必ずしもその判断は誤りとは言えないが、そうではない。上述したように企画物の袋帯の中には、そう高価でもない袋帯が立派な桐箱に入っていることもある。

 帯ばかりではなく次のような話を聞いたことがある。

 全国で展示会販売ををする小売屋さんは、立派な桐箱に仕立物を入れて納めると言う。それも肉厚でかまぼこ型の桐箱という。さて、それ程の商品なのかと言えば疑問が残る。受け取るものとすれば、仕立物が桐箱に入れられ納められるのは、高級品ならではのサービスと喜ぶだろう。

 しかし、そこに落とし穴がある。きものや帯に限らず、箱入り、桐箱入りの商品はしても高価に見える。中身はどうあれ、とても高級品、高額品に見えるのである。消費者にとって価値の分かり難いきものはその効果抜群である。

 桐箱に入ったお菓子が不味ければ、「なんだ、こんな菓子を桐箱に入れるのか。」と思えるけれども、きものの場合は全て美味しく(高価に)思えてしまう。

 箱入り、桐箱入りの価値を正しく評価すれば、

「良いきものは、箱入り、桐箱入りの場合がある。」

「箱入り、桐箱入りのきものは、必ずしも良い物とは限らない。」

そして、最後に

「箱入り、桐箱入りの着物は消費者の目を曇らせてしまう場合がある。」

そう考えては如何だろうか。

③作家物

 「これは作家物です。」

 こう言った商品説明を受けた経験はないだろうか。そんな時は、その商品に対してどのような印象を抱くだろうか。「この商品は高価だな。」と思うかもしれない。

「作家物」とは、「作家が創ったもの」の意である。では「作家」とは何だろう。

「作家」とは、その作品を作った人である。染織の世界のみならず、芸術や文学の世界でも使われる。その作品を創った人が特定できる場合、その人がその作品の作家である。

きものの場合、「作家物」と言っても、作家一人で作品を仕上げるというのは稀である。

 加賀友禅は協会に加盟している作者は全て加賀友禅作家とされている。加賀友禅作家は、図柄を創作し、糸目を入れ、指し色を考える。ほぼ作家のオリジナルであるが、弟子やその他専門職の手を借りている。それでも、加賀友禅作家は作家としての地位を得ている。

 江戸小紋には作家物もある。しかし、伊勢型紙を彫る作家、型染作家両方の手を借りている。染織においては、絵画のように作家本人全く一人で仕上げるのとは少々違うかもしれない。

 きものの世界では、この「作家」が頻繁に使われる。冒頭に記したように
「これは作家物です。」
と言う様に。

 きものの世界では何故それ程「作家」という言葉が飛び交うのだろうか。

 私もお客様に、
「これは作家物です。」
と説明することがある。その言葉の裏には、
「この商品は高価です。」
「この商品が高価なのは・・・。」
と言う意味があるのは否めない。

 私が「作家物」と説明する商品は、私が「作家物」として認められる商品のみである。私の「作家物」の尺度はどの程度のものか、その保証の限りはないが、私が常日頃商品を仕入れ、問屋にその商品の説明を受け、その商品が明らかにその作家の手になるものであり、作品として秀でていると思われるものである。

「私が、作家物である、と思う商品以外は作家物ではない。」
などと大仰に言うつもりは全くないけれども、「作家物」の範疇はどこかで線を引かなければ大変なことになってしまう。

 着物の世界では「作家物」が氾濫している。その結果、「これは作家物です。」の乱発となるのである。

 私が、
「これは作家物です。」
と説明する場合は、少なくともどのような作家であるかも説明している。説明できなければ、
「これは作家物です。」
とお客様に説明することはできない。

 問屋から
「これは○○先生の作品です。」
と言われて仕入れたとしても、自分が納得できなければ作家物としてお客様に勧めることはできない。

 ある有名な作家の作品とされているものが、問屋に山積みされている。果たしてそれ程の数の作品をその作家は創れるのだろうか。

 きものの業界で「作家物」が氾濫していることは確かである。小売店は「作家」の意味をよく理解し、消費者への説明責任があるが、実際にはそうは行っていないのが現実である。いや、むしろ作家はどうでもよく、
「これは作家物です。」
の一言で消費者を惑わせようとしているように思える。

「これは作家物です。」
の説明を受けた時には、その作家がどのような作家で、どのような作品を創っているのか、詳しく説明を受け、自分が作家として評価できるのかどうかを考えてみる必要がある。もっとも、その前に、その商品が作家物であろうとなかろうと、自分が好きな商品(着たいと思うきものなのかどうか)の判断が大切である。

➃ 落款

 きもの、特に留袖や訪問着などの絵羽物では、落款が消費者の目を曇らせる一因となることがある。

 落款(落成款識)は、その作品の作者が署名をする意味がある。作者が責任をもって作品を創ったことを意味している。作家物と呼ばれるきものにはほとんどこの落款が押されている。きものの場合には下前のおくみ。染帯の場合は垂れ裏に押されていることが多い。

 書画ではこの落款は原初の意味を越えて美的価値を高める役割もしている。白い紙に黒い墨で書かれた書画の片隅に陽刻と陰刻の二つの朱印落款が押されることによって作品はより引き立つ。書画の作品では、大家の作品ならずとも本気で趣味としている素人作品にも落款が押され、作品の一部ともなっている。

 しかし、染織の世界で落款は、作品の一部ではなく、むしろ目立たないところに押されている。きものでは人目に触れない下前のおくみに押されている。染帯の場合は、垂裏に押されている場合が多いけれども、帯の場合仕立て方によっては垂に出すこともできる。落款を垂に出してほしいと言う人もいるが、人の目につく場所に落款を出すのはどうも抵抗を感じる。

 きもの、染織の世界で落款は、あくまでも作者証明の為に押されるものであり、書画のような作品の一部とは成り得ない。

 加賀友禅は全て登録された加賀友禅作家の作品で必ず落款が押されている。私が仕入れする場合は、落款を見て、
「ああ、やはり○○さんの作品ですか。」
と作者を確認する目安となるが、作品そのものに影響するわけではない。

 しかし、その落款がすばらしい価値があるかのように流布されている帰来がある。

 「この作品は○○先生のものです。」
と説明する為ならよいが、
「これは落款入りです。」
と、落款が押してあるきものは高価であるかのような説明である。絵羽物(留袖や訪問着)に落款を押したものが多い。作家の落款が押してあるのが本当なのだが、中には作家の落款ではないものもある。作家の落款でないものは落款とは言えないのだけれども、落款のような朱印が押してある。聞いてみると、染屋や工房の印である。

 染屋や工房が落款?を押すことは問題はない。むしろ染屋や工房が作品の出所を明らかにするものとして責任を明確にする意味がある。それだけなら良いのだけれども、落款の押されたきものは消費者がありがたがるといった背景はないのだろうか。いや、消費者がありがたがるのではなく、売り手が消費者をありがたがらせる道具となってはいないのだろうか。

 きものの価値は落款にあるのではない。落款は出自をあきらかにするものであって、きものの本当の価値はその作品そのものである。きものを購入する場合、落款があるかないかではなく、そのきものが自分にとって価格に見合う価値あるものなのかどうか、それだけである。

⑤ 生地

 きものを選ぶ際に生地の良し悪しは大切である。
「良い生地を使っています。」
とか、
「生地がしっかりしています。」
と言う売り口上も聞かれる。

 留袖や訪問着、小紋、襦袢また紬、帯も生地には変わりないが、一般に生地の良し悪しが云々されるのは縮緬や羽二重である。紬を手に取って
「この生地は良いです。」
というのは余り聞かない。その場合は、
「これは良い織物です。」
とか、
「良い紬です。」
と言われる。帯も同じである。そういう訳で、ここでは「生地」とは縮緬や羽二重地の事として話を進める。

 縮緬地や羽二重地には良い生地(高価な生地)もそうでない生地もある。商品に良し悪しがあるのは他のどのような商品とも同じである。

 昔は生地の良し悪しの尺度は量目(重さ)であった。もちろん糸の質等他の要素もあったかもしれないが、絹が貴重品の時代にはどれだけの絹糸が使われているか、すなわち重さがいくらあるかが生地の尺度であった。

 縮緬地の量目は「貫六」「貫八」等と呼ばれている。「貫六」というのは十反で1貫600匁、メートル法で言えば6kg、一反あたり600gの意味である。「貫八」は一反675gで「貫六」よりも重い。更に重い生地では「二貫四百」(一反900g)も織られている。

 昔は重さを尺度としたために、糊で増量することも行われたという。昔仕立てた着物を広げると、裏地の羽二重に茶色のシミが全体に付いているものがある。これは、今ほど精錬を徹底して行わなかったためである。糊を完全に落とせば同じ生地でも軽くなり、生地の評価が下がったためである。

 このように、昔は、
「これは良い生地です。」
というのは、
「重い反物です。」
とほぼ同義語であった。ここで言う「昔」とは昭和40年頃までと思う。

 さて、現代は昔ほど絹は貴重品ではなくなった。「輸出羽二重」と言う言葉が残っているように、絹は当時の日本の輸出花形品の一つとして生産されていた。高価な絹は外貨を稼ぐ貴重な商品だった。しかし、現在絹を生産(蚕を飼っている)しているのは、山形と群馬のみである。(少量生産しているところは他にもあるが。)数少ないそれらの産地も補助金でようやく成り立っている。それも間もなく補助金が打ち切られて国産の絹は姿を消す運命にあると言う。

 現在絹は量的には圧倒的に輸入品が多い。中国やブラジルである。価格的に国産品はとても太刀打ちできない。輸入品の胴裏羽二重地は私の店で6,000円である。(十分使用に耐えうるもので、更に安い商品も流通していると思う。)一方純国産の胴裏となると20,000円を下らない。それもこれからはもっと値上がりするという。

 量的に十分に絹が供給される今日、昔の様な薄い(量目の少ない)生地は作られなくなった。昔の着物みると、透けて見えそうな表生地も時には見られるけれども、現在そのような生地は見かけない。通常貫六から二貫二百位まであるけれども、いずれも十分に使用に耐えるものである。そして、糊を増量するという話は全く聞かないし、そのような生地にはお目にかからない。

 現在の生地の良し悪しは量目だけでは計れない。

 国産の絹糸の品質はずば抜けている。絹糸の品質と言えば、均質性と細さである。

 白生地屋さんが白生地の学術的なシンポジュウムの資料を見せてくれたことがあった。日本の繭である小石丸や新小石丸等日本産の絹は均質性と細さにおいて数値的に証明されていた。

 富岡製糸工場が世界遺産となり国産白生地のキャンペーンが行われたが、持ち込まれた白生地は品質の良さが感じられた。どのように感じられたかと言えば、私は反物を巻いた時感じられた。私はこの業界に入ってこの方どの位の反物を巻いただろうか。

 反物の巻き方は簡単なようだが難しい。慣れてしまえば簡単なのだが私も最初は苦慮していた。両手の薬指と小指使って反物を送り巻いてゆくのだが、国産の反物の感触は明らかに違っていた。一口で「サラサラ」としか言いようがないが。

 さて、国産と一口に言ってしまったが、この定義がまた難しい。繭から白生地になるまでには沢山の工程を経てできる。大きく分ければ四工程である。

 1.繭から生糸を採る   ・・・  製糸

 2.糸を撚る       ・・・  撚糸

 3.生地を織る      ・・・  製織

 4.生地を練る(糊を落とす)・・・  精錬

 白生地業界では国産の繭からこの全ての工程を国内で行ってできた生地を「純国産」と言っているようだ。全て海外で行うものもあるが、海外の繭を使い一部の工程を国内で行うものもある。

 最後の工程である精錬だけを国内で行っているものもある。それらは生地の端に「精錬-日本」と刻印してある。消費者にとっては日本製なのかどうか、またどれだけ品質を保証するものなのか分からない。

 現在の白生地は上記の理由で玉石混淆の状態にある。昔の様に「しっかりとした生地」「重い生地」だけでは判断ができなくなっている。消費者が生地の良し悪しを判断するのは難しくなっているのではないだろうか。

 私は誤解を恐れずに言えば、消費者には、
「生地の良し悪しはそんなに気にしなくても大丈夫ですよ。」
と申し上げたい。もちろんこれには前提が伴う。

 第一の条件は、まともな呉服屋での話である。今白生地は二束三文とも言えるような安い海外の製品から前述の純国産の白生地まである。その差は一反で10万円を下らないだろう。まともな呉服屋であれば、染めを施された安い生地の商品は安く買い付け、高い白生地は高く仕入れる。そして、消費者へは安いものは安く、高い物は高く提供せざるを得ない。

 しかし、安く仕入れた(安い生地)商品を国産白生地と同じように販売する業者も後を絶たない。まともな呉服屋であれば白生地の価格は上代に正確に反映されている。従ってそのきものの白生地はその価格並みと思って差し支えない。

 第二の条件として、同じレベルの商品を比べる場合に限られる。

 きものは白生地に染を施されたり刺繍をしたり、箔を置いたりして加工される。その付加価値は生地代に比べて圧倒的に高い。

 同じ白生地を使っても、色無地に染められた反物と伝統工芸作家が付加価値を付けたものでは価格が天と地程に差がある。10万円の白生地と100万円の友禅訪問着ではどちらの白生地が高いか分からない。

 しかし、加賀友禅の訪問着を選ぶとしよう。加賀友禅だけではなく同じような格の京友禅訪問着も一緒に比べて選ぼうとした場合、白生地はどれほど問題にする価値があるだろうか。80万円の加賀友禅、100万円の京友禅その他その程度の訪問着を比べた時、それらに使われている白生地はどういうものだろうか。

 それらの白生地は実際に価格に差はある。しかし、その差はそう大きなものではない。せいぜい1~2万円程度ではなかろうか。訪問着の上代価格に比べれば微々たるものである。

 それらの訪問着に使う白生地は、作家や染屋が選ぶが、その基準は「糸目糊がのりやすい」とか「染料が挿しやすい」「光沢がありフォーマル感がある」などだろう。良い作品を創る為にそれに適した生地を選ぶのであって、価格で選んではいない。そしてその選ばれる白生地はそれにふさわしい物である。

 100万円の友禅訪問着を創るのに、ぺらぺらの安い白生地を使うはずはない。詮索するまでもなく、まちがいなくそれに相応しい白生地を使っているのである。従ってこのような場合、どちらの白生地が良いのかは問題にする必要はない。

 江戸小紋や緻密な友禅の場合、シボの高い縮緬地は柄を置きにくく、シボの低いさらさらした生地が使われる。こう言った生地は、シボの高い鬼縮緬と比べると薄く感じられあたかも安い生地に思えてしまうが、一流の染師の江戸小紋は決して安い生地を使ったりはしない。

 色無地は最も白生地代が上代に反映されるきものである。無地染の染価が同じであれば上代は白生地によって左右される。色無地の場合、価格に拠って白生地の良し悪しが分かるともいえる。ただし、これもまともな呉服屋での話である。

⑥ レア物

 「レア物」と言う言葉は横文字できものには似つかわしくない。しかし、以前バスケットシューズや時計など「レア物」として高値で売買されたことがあった。

 その当時、野口汎先生の長板中形小紋が深夜放送で紹介され、若い人が問屋に殺到してたちまち商品がなくなったことがあった。普段きものなど着ない若者から
「どんな柄でも良いから一反・・・」
と言う注文も舞い込んだという。マスコミの力も去ることながら、「レア物」という付加価値は如何に購買意欲を刺激するかを如実に表している。

 「レア物」はきものの世界では、
「あまりありません」
「中々手に入りません」
と言う売り口上で表現される。その理由は、原料が希少であったり、創る人が少なかったり、また過去の作家の作品で今は出回っていないなど様々である。

 希少なきもの(レア物)を勧められれば誰しも触手が動いてしまう。誰も持っていない物を着たい身に付けたいと言うのは人の本心だろう。では、きものの場合、この希少なきもの(レア物)をどのように解釈し購買の判断材料にしたらよいのか、考えてみたい。

 まず、材料の希少性についてはどうだろう。

 材料の希少性を語る際、一次産品と二次産品に分けられる。一次産品とは原料そのものが希少であるもの。例えば黄金繭とか貝紫など、原料が少ないか採取しにくい物である。二次産品では、越後上布や品布のように原料はあってもそれを糸にするのが難しい、または糸を作る人がいないといった商品である。

 確かに昔からある製品については、希少品としての評価に値するものは多い。紫根や茜はもう国産のものはほとんどないという。今、紫根は中国、茜はインドから輸入されている。日本紫根、日本茜で染めたきものは希少品として扱われるだろう。結城紬や越後上布は糸を紡ぐ人、績む人がいなくなりより希少なものとなっている。

 しかし、新しい商品には果たして希少性の判断が難しい物もある。

 きものに限らず、新しい素材や商品はもてはやされる。戦後、ナイロンが発明され市場に出回った時にはナイロンの洋服が高価なものとされ珍重された。今にすれば、静電気が起き通風性に欠けるナイロンの洋服など着れたものではないが、当時はあこがれの商品だった。十数年前にはテンセルというセルロース系繊維が話題になった。当時だいぶもてはやされ高価だったが、現在余り聞かなくなった。

 電気精錬の技術がなかったナポレオンの時代、アルミニウムは金と同じように珍重され、貴族はアルミの食器を自慢していたという。

 新しく世に出た製品は注目されもてはやされる。中には後世までその価値が認められ続けるものもあるが、時代とともに消える物もある。それは、その商品の価値が本物であるかどうかにある。それらは決してまがい物ではないが、本当の価値以上にもてはやされれば、いずれ淘汰されて適正な価値(価格)に落ち着いてゆくのである。

「このきものはあまりありません」
「このきものは中々手に入りません」
の言葉の裏にも同じようなことが隠されている。

 きものの中には、昔から織り続けられ、染め続けられたけれども最近姿を消しつつあるものは多い。作る人(織る人、染める人)がいなくなったせいもあるが、需要がなくなって姿を消すものもある。ネルやセル、メリンスなどがその例である。全く無くなったわけではないが手に入りにくくなった。

 作る人がいなくなり商品が少なくなった商品は、価格が高騰し珍重されている。需要がなくなったものについては「レア物」扱いはされない。在庫があってもお呼びが掛からずにそっと棚に眠っている。

 前者は、
「このきものはあまりありません」
「このきものは中々手に入りません」
の売り口上の対象になるが、後者は黙って棚の隅にしまわれている。

 私は、どちらも日本のきものとして残してもらいたいと思うのだけれども、現実には価格が高騰し庶民には手の届かなくなるか、もしくは誰も着る人がなく姿を消してゆく運命にあるのは致し方ないのかもしれない。

 さて、きものの売り場で「レア物」扱いされるものの中には、上記の商品とは全く違ったものがある。昔からあるきものではないが、「レア物」として売り場に並べられるものである。新しい素材や新しい織り方染め方、また新進の作家の作品などである。それらは、前述したナイロンやアルミニウムなどと同じように価値の判断が難しい。

 更に、売り口上で「レア物」とされる物には偽物もあることを覚えておかなくてはならない。偽物というのは、まがい物ということではなく、販売員の説明に嘘偽りがある場合もある。

 消費者は希少価値に弱い。それに付け込んで、「レア物」を創作したり、「レア物」でもないものを言葉巧みに希少性を売り込むことは、販売側にとっては大きな力となる。

 話は複雑になってしまったが、消費者が商品の希少性をどのように捉えたらよいのだろうか。希少品には様々な意味がある。本当に希少な商品。販売戦略上希少品として売っているもの。時には希少品でないものを希少品として売っている場合もある。

 消費者が、希少品と説明されただけで触手を伸ばしてしまうのは早計である。その商品の希少性をよく理解することが大切である。そして、希少性を理解したとしても、そのきものが自分にとって本当に必要なものなのかをよく考えなければならない。

⑦ 証紙

 きものの購入する際、その目安とされるものに「証紙」がある。「証紙」は品質を保証する為に商品に添付あるいは刻印されるものである。きものの事をよく知らない人にとっては都合の良いものかもしれない。

 きものに添付される証紙といえば・・・実に沢山ある。(沢山あった、と言った方がよいかもしれないが。)西陣織、博多織、京友禅、日本の絹等々。いずれもそれ相応の意味がある。しかし、その証紙の意味するところを正しく理解しなければ、かえつて誤った判断になりかねない。

 西陣の証紙は、数あるきものの証紙の中でも私が一番敬意を表する証紙である。証紙に表示される内容は、時代や法律とともに若干変遷したものの、長い間権威を保持し続けている。証紙の中には、なし崩し的に権威を失ってしまうものもあるが、西陣の証紙は「めがね証紙」と呼ばれる形状とともに今日に至っている。

 この証紙の意味するところは、「西陣で織られた帯であること」「織屋毎の番号が記されて製造元を特定している」ことである。昔は「正絹」と記されて、品質を保証していたが、法律の改正(改正ではなく解釈の変更と言った方が良いかもしれない)によって証紙に品質は記されなくなり、代わりに品質を記載したシールが貼られるようになった。(この辺の事情については「フォトトピックス10.西陣の証紙が変わりました」を参照してください。)

 「西陣で織られた」と言うのは、最近多い中国で織られた帯ではないという意味でもあり、換言すれば「この帯は西陣織工業組合加盟の織屋が織った帯であることを証明」する証紙である。それをどのように解釈するのか。

 以前、お客様に「これはどこの帯ですか。」と尋ねられ「西陣です」と答えたことがあった。するとそのお客様はとても感心したように「ふーん、西陣の帯ですか。」とまじまじと帯を眺めていた。

 西陣の帯という言葉は特定の帯を意味するものではない。西陣では手織りの帯、爪掻綴から汎用品の帯まで作っている。そのお客様は「西陣の帯」と言う言葉に高価な工芸品を連想したのかもしれない。

「西陣の帯」の意味するところを正しく解釈しなければ判断を誤りかねない。

 証紙に記された「織屋番号」も同じである。

 織屋番号は西陣織工業組合に加入した順に番号が与えられている。最初のチャーターメンバーは五十音順に付されたが、それ以降は加盟順である。それ故、早い番号の織屋は昔からある織屋であるということは言える。しかし、後から加盟した織屋にも老舗は多い。

 ちなみに、最も古い織屋と言われる「紋屋井関」は織屋番号が1318である。番号の遅い織屋は老舗ではないというわけではないし、まして良い織物を織っていないということは全くない。西陣の織屋は等しく良い帯を織る為に努力している。

 西陣の証紙は商品を保証するのは間違いないが、消費者の判断は正しく行わなければならない。

 博多帯の証紙については、「きものフォトトピックス11.博多織工業組合証紙」と「同12.博多織工業組合証紙改定」で詳しく書いたが、現在の証紙は以前の証紙ほど商品を差別化できなくなってしまった。

 博多織工業組合は西陣織工業組合と並ぶ老舗的な組合だけれども、なぜこのように改定してしまったのか、私は疑問に思っている。

 西陣の証紙、博多織の証紙、どちらも時代とともにその意味するところが微妙に、あるいは大きく変わっている。とはいえ二つの証紙共はっきりとした基準を提示し組織もしっかりしている。

 しかし、証紙の中には基準がはっきりしないものもある。

 西陣の帯に添付してある「手織りの証」という証紙は私の知る限り三種類ある。おそらく、それぞれ主催している組織では、その判定基準があるのだろうけれども、そもそも何故三種類あるのかがわからない。

「手織り」とは手で織ったもの、すなわち機械で織ったものではないという意味なのだろうけれども、どこまで手を掛けたものを「手織り」と言うのか。中国や諸外国で織られたものでも手で織ったものであれば「手織りの証」が添付されるのか。基準ははっきりとしているのかもしれないが、同じような証紙がいくつも乱立していれば、どれが何を保証するものかわからなくなってしまう。

 この「手織りの証」をはじめ証紙の中には、なし崩し的になくなったものもある。いつの間にか証紙がなくなってしまうのは、それを発行する基盤が脆弱であることを意味している。証紙は信用の証である。その発行する基盤が信用できるところでなければ証紙の信用も崩れかねない。

「手織りの証」は「手織り」と言うたいへん素人受けする文言を関しているだけに消費者は誤解なく理解する必要がある。インターネットの帯を販売するサイトでは、「手織りの証付」と強調しているものもある。

 どんな証紙であれ、証紙が貼ってあれば金科玉条を意味するわけではない。消費者がし宇品を選ぶ際には、証紙の本当の意味を理解した上で、購入の参考としなければならない。

 もしも、販売員が証紙をたてに売り込んできたならば、証紙の意味するところを詳しく説明してもらえばよい。そとて、納得して商品を購入することである。

 私も還暦を迎えて少々ボケてきたかもしれない。このブログの構想はいつも寝ながら考えている。次は何を書こうかと寝るときに布団の中で考え、翌朝目が覚めると起き上がるまでに再度内容を吟味している。日中店でそれらを文章にまとめているのだが、最近構想の段階で
「あれを書こう、これを書こう」
と思ったことが抜けてしまうようになった。

 私は小説家でも文筆家でもないので、それほど時間を掛けて書いているわけではないのでしょうがないとも思うけれども、やはり自分の考えはなるべく詳しく伝えたいと思う。

 さて、「証紙」に関して書き漏らしたことは紬の証紙についてである。西陣や博多の帯の証紙に気を取られて、うっかり紬の証紙について書き漏らしてしまった。

 紬の反物には、端に証紙や紬の名前が書いてある紙(ラベル)が貼ってある。「本場結城紬」「大島紬」「黄八丈」等々。貼ってある紙が全て証紙ではない。証紙と言えるものは、特定の機関が認定したもので、広く知られているし、分からなければ少し調べてみればすぐにわかる。本場結城の証紙、大島紬では鹿児島産は旗印、大島産は地球印というのは有名である。

 それらは厳密な検査を受けた物のみに添付が許され、「合格」の検印や検査済みのパンチングの穴が開けられているものもある。

 それぞれの証紙の意味についてはここで省くが、証紙とともに貼ってあるラベルがある。それらのラベルも証紙と対になって貼ってある。すなわち証紙と共に貼られるラベルは証紙を許された反物のみに貼られている。そういう意味では証紙と同じ意味があるかもしれない。そして、それらのラベルは証紙よりもより具体的で目立つものが多い。

 本場結城紬では証紙の他に機を織る娘が描かれたラベルが貼られている。長年見ていると、そのラベルを見ただけで「結城紬」を連想してしまう。しかし、そのラベルと似たようなラベルが多く創られている。

 結城地方ではその近隣地区も含めて数多くの紬が作られている。その中で「本場結城」の名を冠して証紙が貼られるのはごく一部である。本場結城は、いざり機で織られるが、他の紬は高機と呼ばれる織機でおられる。そして、それらの紬も「結城紬」のラベルが貼られている。よく見れば本場結城とは違うがよく似ている。

 産地でそのようなラベルを創るのは、決して悪意からではないと思う。同じ結城地方の紬としてイメージを共有するためのものだろう。しかし、問題はそれを受け取る側またはそのラベルを説明する側にある。消費者が誤って判断しないことに越したことはないが、それを説明する側に問題が生じる恐れがある。

「結城紬は高価ですばらしい。」と思っている消費者に「これは結城紬です。」と説明したらどう受け取るだろうか。本場結城紬と高機の結城紬、石毛結城との違いをはっきりと説明することなく「結城紬です。」と説明したら消費者は誤った解釈をする可能性は大きい。

 説明不足だけであればまだ良いが、悪意をもって「結城紬です。」と販売員が切り出せば、大変なことになるのは必定である。また、結城紬に対する知識の十分でない販売員であれば、悪意はなくても結果的に同じことになるのも考えられる。結城紬の場合、紛らわしいラベルであることは間違いない。そういう消費者にとって紛らわしいラベルについても販売する側でははっきりと説明する責任がある。

 紛らわしいラベルと言えば、紬全体に言える。

 全国に名が知られた紬はたくさんある。多くはその産地名を冠している。結城紬、大島紬、塩沢紬、琉球絣、久米島紬等々。紬は元々全国どこででも織られていたのだろう。主婦が自家用としてその地域地域で手に入る糸を使い生地を織り使用していただろう。それが次第に淘汰されて残ったものが今日まで織り続けられている紬である。織り続けられ全国に名を馳せるには良い品であると同時に特徴のある紬である。結城紬、大島紬、塩沢紬などそれぞれ特徴を持った紬である。

 少なくなったとは言え、今でも紬はそちらこちらで織られている。今はほとんど見かけなくなってしまったが、三十年くらい前までは西陣でも紬は織られていた。他に紬の産地と言えば、十日町を中心とした新潟、山形の米沢ではまだ相当数の紬が織られている。その他の地域の紬も含めてラベルには、「結城紬」「大島紬」の名を冠しているものがある。

 正確に言えば「〇〇結城」「〇〇大島」と言ったように枕詞があり、本場結城紬や本場大島紬とは全く違うラベルが貼ってある。

 結城や大島の名を冠しているとはいえ、メーカーでは消費者をだまそうという悪意はないのは明らかである。似たようなラベルを使うのであれば悪意も読み取れるけれども、全く違ったラベルを使い、意図するのは「結城紬風の」「大島紬と似た組織の」という意味で商品に名前を拝借しているのである。

 我々業界の人間が「〇〇結城」「〇〇大島」というラベルを見ると、「ははぁ、なるほど。」と、その意味を良く理解するのだけれども、消費者の中には勘違いする人も多い。

 店頭に「越後結城」を飾っておくと、「結城紬ですね。」と感心して見ていくお客様もいる。本場結城紬と勘違いしているようなので、「これは新潟で織られた・・・・。」と説明し、値札を見せると、「そんなに安いのですか。」と驚いている。越後結城は本場結城と違い、縦横に手紬糸を使っているわけではないので価格は相当に違う。

 ラベルは本場結城とは全く違うし価格も全然違う。お客様に丁寧に説明すれば良くわかっていただけるのだが、何の悪意もないラベルが消費者の判断を誤らせないのかと心配にもなる。まして悪意を持って説明された場合、消費者にとってとんでもないことになる。

 ラベルは証紙とは違うけれども、メーカー、販売業者共に消費者に対しては細心の注意が必要である。それと共に、消費者はラベルや証紙の意味を短絡的に理解せずにその意味するところを良く理解する事が必要である。

 もっとも、責任は消費者ではなく販売業者にあることは論を待たないけれども。

⑧ 良いきものを選ぶには

「良いきものの証」と題して、きものを選ぶ際の指標になるであろうことについて書いてきた。価格、箱入れ、作家物、生地、証紙等々。いずれもきものを購入する場合に指標となるもので、それに頼ってきものを選んだり、小売屋さんにそのきものの価値を示すものとして説明されたりするかもしれない。

 それぞれの文章を読んで、
「それらは当てにならない。」
「それらは無視した方が良い。」
と思われた方もいるかもしれない。

 しかし、いずれもれっきとしたきものの価値を表す指標であることは間違いない。問題は、それらの正しい意味、正しい知識を持って評価できるか否かである。
「きものの価格は、その相場はどのくらいなのか。」
「その作家はどのくらい認められている作家なのか。」
「証紙の意味するところは何なのか。何を保証している証紙なのか。」
それらの正しい知識を持って評価しなければかえって誤った判断を下してしまう場合もある。

 そして、そこには落とし穴もあることを忘れてはならない。きものに対する消費者の浅識に付け込んで、売り口上としてありもしない価値を喧伝する材料に取り上げられることもしばしばである。

 良いきものを選ぶには、きものに対する知識を深めることは言うまでもない。しかし、実際に消費者が必要な知識を身に着けるのはほとんど至難の業である。我々業界の人間は毎日きものと向き合いきものの知識を吸収している。消費者が求めるような知識についてはまずまず身に着けているつもりだが、それでもまだまだ知らないことだらけである。

 まじめな小売店であれば、消費者の疑問には答えられるだろう。もしも、きものを買う際の売り口上に疑問があれば、とことん質問してみればよい。「作家物」を売りに勧められたら、
「その作家はどういう作家なのか。」
証紙を盾に勧められたら、
「その証紙は何を保証するものなのか」
「どういう機関で認定しているものなのか」
十分に納得できるまで聞くことが大切である。

 それと同時に信用ある小売店で買うことである。きものについて正しく教えてくれる小売店、価格についても十分に説明できるような店、そして信頼できる店である。

 きものを買う価値は、きものそのものにある。値引き、サービス、接待、招待、過度な勧誘等は雑音でしかない。時には雑音が真の価値を曇らせてしまうこともある。あらゆる雑音を消し去ってきものと向き合うことが大切である。できれば雑音のない小売店できものと向き合いことである。

 きものに限らず物を買うのには自己責任が伴う。詐欺や不良品は論外だが、自分が判断して商品を買う場合、買った商品には自分で責任を取らなければならない。その意味で、きものを買う場合はあらゆる観点から検討したうえで、最終的に価格と商品を比べて、
「その価格で買うことが自分にとって価値があるかどうか。」
の判断が必要と思う。

着物のことならなんでもお問い合わせください。

line

TEL.023-623-0466

営業時間/10:00~19:00 定休日/第2、第4木曜日

メールでのお問い合わせはこちら