全日本きもの研究会 きもの春秋終論
Ⅵ.きものつれづれ 30.今年も成人式
今年も成人式を迎える。今年は1月14日である。「今年は」と言うのは、成人式が曜日で決められているので毎年日付が違う。昔は1月15日と決まっていた。連休を考慮して月曜日にしているのだろうが、その前日の行うところも多い。我山形市も今年の成人式は1月13日日曜日である。
「成人式は1月15日」と決めた方が何かありがたみがある様に思えるのだが、それは年寄りの昔を懐かしむ保守的なノスタルジーなのだろう。
さて、この成人式を迎えると私は様々な事を考える。もちろん着物の事、呉服業界の事である。
「成人式で振袖を着るようになったのはいつからか」
「何故、成人式で振袖を着るのだろう。着なければならないのだろう。」
これらの疑問は、私のような業界の人間ではなく振袖を着る当事者の問題なのだけれども、果たして新成人達はどのように感じているのだろう。
私の成人式は四十数年前である。人生の区切り目としてはっきりと覚えている。県外に出ていた私は帰省して山形市の成人式に出席した。同年代、すなわち同級生が多く出席して同窓会さながらだった。
中学までの同級生、高校の同級生、また県外で知り合った同郷の人もいた。すでに静粛な成人式ではなくなっていたが、今と比べればまだ荘厳であった。
多くの女性が振袖を着ていたが、洋服の女性もいた。私は呉服屋の息子であるが、またでそのような意識はなくみんなと同じスーツ姿だった。まだ学生だった私は、スーツを着る機会などなく、スーツでも十分に晴の気分だった。
式が終われば数人のグループで街に繰り出して喫茶店などでのミニ同窓会だった。
成人式が始まったのは戦後の事で、初めは振袖を着る人はいなかったと言う。当時の映像では、姿勢を正して成人式に望む姿が映されている。我々の代と比べても、「これが同じ二十歳?」と思わせる。
成人式の振袖は、呉服業界が仕掛けたとも言われている。おそらくそうだろう。戦後の貧しい時代を越えて豊かに成り、若い女性が振袖を着たいと言う欲求と呉服業界の仕掛けが一致したのだろう。
若い女性が着物に関心を持ってもらう切っ掛けとして真に良い処に目を付けたものである。業界の先輩には感謝しなければならないと思っている。
しかしながら、その後今日に至る成人式と振袖の関係を私は余り感心しない。「何故、成人式に振袖を着るのか?」それはないがしろにされているように思える。
現代の振袖と成人式の関係を見て見よう。
二十歳になる数年前から振袖販売のDMが送られてくる。とても分厚いカタログであったり、DVDが送られてくることもあると言う。それが何社からも競うように送られてくる。そして、電話勧誘が頻繁に掛かってくるようになる。展示会の案内である。
展示会に出向いて振袖を見れば購入を勧められる。当人としては、もっといろいろな店で振袖を見て選びたいと思うのだろうが、店の人からは「早く約定しないと、着付けの良い時間が採れません」と言う殺し文句を言われるらしい。
かくして振袖を購入して、まずは前撮りである。振袖を着つけてもらい写真屋さんで前撮りをする。そして、本番の成人式である。
朝早くから着付けをしてもらい成人式会場に向かう。
さて、ここで山形市では別の問題が生じる。おそらく同じような問題は他の地方都市でも起こっていると思う。これは呉服業界の問題と言うよりも、私が手掛けるもう一つの事業である街づくりの問題である。
我々の時代は街中の体育館で式を行った。モータリゼーションも今ほどではなく、車で来る人もいたが、それ程交通渋滞も起こらなかったと思う。
しかし、今日モータリゼーションの発達により、車で来場する人が多く会場は郊外に造られた体育館となった。バスも通らないところなので、歩いて行くのは余程近くの人ばかり。ほとんどの人が否応なしに車で送ってもらう事となる。当日周辺は大渋滞。式に送れる人さえ出る始末である。
郊外の新しくて広い体育館で式を終え、帰りはまた車の手を借りなければならない。来るときほどではないだろうが、再び長い時間を掛けて自宅に戻る。
さて、このような一連の過程で、果たして新成人に振袖を堪能し、着物の良さを感じてもらえただろうか。
過程を要約すれば、DMに誘われて展示会で振袖を購入する。本当はもっと振袖や着物の事を理解し他の店も見て回って決めたかったかもしれない。
そして、写真屋さんで言われるままにポーズをとって前撮りをする。本当は、自分が好きな場所、思い出の場所であったり、自宅の庭など自分の人生の一里塚に相応しい場所で前撮りをしたかったかもしれない。
当日、朝早くからの着付けである。見知った美容院の着付師さんであれば、そこそこの感慨もあろうが、そう言った着付師さんがいない人は呉服屋指定の着付師に着せてもらう事になる。
振袖姿で親に車で送ってもらう。渋滞に巻き込まれてようやく式場に着く。式が終われば再び車で帰る。中には渋滞に巻き込まれまいと式が終われば一目散に帰る人もいるだろう。
本当は友達と久しぶりの時間を楽しみたいだろう。一緒にお茶を飲もうにも体育館の限られた施設しかない。そこそこに友人ともお別れとなる。
その後はどうなるか分からないが、自宅に戻り洋服に着替えて同窓会に臨むのかもしれない。
この一連の流れを見ると、本人がどれだけ振袖と自分の時間を楽しめたのか、私は疑問に思う。
成人式と前撮りをする僅かな時間の為に高価な振袖を早々、あるいは一年二年前に決め、まるでオートメーションの様に成人式が過ぎ振袖を脱いでしまう。愛着のある振袖を着て親戚を訪問したり、街を歩いたりすれば皆に祝福される機会もある。式の後街に繰り出しミニ同窓会をして同級の男性に振袖姿を褒められる。そう言った振袖を着る本来の意味が失われていないだろうか。
「成人式には振袖がつきものです」とばかり売り込む姿勢が昨年の「はれのひ」の事件にもつながっている。「成人式の為だけの振袖」を離れて、売る方も着る方も振袖本来の意味を理解し、振袖に触れてもらいたいと思うのは私だけだろうか。