全日本きもの研究会 きもの春秋終論
Ⅵ.きものつれづれ 47 本当の普段着
先日、お客様から普段着に関する相談を頂戴した。手に入れた普段着の着物にどんな帯を合わせたらよいかと言う質問だった。私はその質問の回答に全く窮してしまった。適切な答えが見当たらないのである。
現代における着物の普段着とは何を指すだろうか。一般的には紬の着物を指す。もう少し広げて解釈すれば、染物の小紋の中でも極軽い物。いわゆる加工着尺と呼ばれる手の込んだ染の小紋ではなく、もっと気軽に切れる小紋を指す場合もある。
また、綿や麻の着物も普段着と言われている。
「結城紬はいくら高価でも普段着です。」
とはよく言われる。結城紬をはじめ、大島紬、黄八丈、越後上布、能登上布、宮古上布、綿薩摩など高価な反物であるが、いずれも普段着である。それ程高価でなくても、米織の紬や十日町の紬など他にも紬は沢山ある。
それらの紬は元々どれも庶民に普段着として着られていた。元々は、流通させるのではなく、地域毎に自分の為に織っていた物だろう。農作業の合間や農閑期に自分の夫や息子、娘の為に紬を織っていたのだろう。
紬糸を紡いだり、絣を付けるには莫大な手間を要する。一反分の紬糸を全て手で紡げば2~3ヵ月掛かると言う。細かい絣の柄付けも大変な手間が掛かる。それらの手間賃、人件費を現代に照らし合わせれば大変高価なものとなる。当時は換金と言う概念がなく、ただひたすら自分たちの必需品を日々織っていたのだろう。人件費という言葉もなく、自分たちの労働がどれほどのものなのかも推し量ることはしなかっただろう。現代の高価な普段着は、その成因から見れば全く違ったものに見えてくる。
さて、高価な結城紬にしろ上布にしろ、また比較的安価な米織や十日町の紬にしろ、今呉服業界で流通している紬に、どのような帯を合わせればよいのか、と問われれば即座に答は可能である。塩瀬の染帯や紬の八寸帯。洒落物の名古屋帯や、場合によっては洒落袋帯、紬の袋帯など。小袋帯などの半幅帯を勧めるかもしれない。これまた今呉服業界で流通している帯である。
呉服業界で創られている着物には、それに合った帯が創られている。
「着物は買ったけれども、合わせる帯が売っていない。」
そういう事はまずない。普段着たる着物には、それに合わせられる普段着たる帯がちゃんと用意されている。
しかし今回、
「普段着の着物とは何か」
と言う事を改めて考えさせられた。
和装洋装を問わず普段着とは何を指すのだろう。アイテムを揚げれば、洋装ではジーパンやTシャツがそれにあたる。アイテムでは全体像がつかめないので、普段着とはどういう場面で着られるのだろう。それは文字通り「普段」に着るものである。では、「普段」とはどういう生活の場面を指すのか。
生活の時間、すなわち1日24時間、1年365日、普段の場もあれば晴の場もある。しかし、それらは完全に区別できるものでもなく、二つの範疇に分けられるものでもない。洋服の場合を考えて見よう。
最高の晴の場である結婚式に女性はドレスを着るかもしれない。私は洋装にあまり詳しくはないが、礼装のドレスにもイブニングドレスやナイトドレスなど、そのシーンや時刻によって着るべきドレスが様々あるらしい。
ドレスでなければスーツも晴の場の洋服である。しかし、スーツにも布帛のスーツもあるしニットのスーツもある。同じスーツではあるけれども、ニットはカジュアルとみなされている。同じ「スーツ」でも、「超晴の場」(変な言葉であるが)から「そこそこの晴の場」(これも変な言葉である)に着るスーツまであり、同じ「スーツ」でも時を同じくして着れない物がある。
ワンピースも一般的にカジュアルとされているが、中にはとてもお洒落で高価なよそ行きのワンピースもあれば、「ホームドレス」「簡単着」あるいは「アッパッパ」と呼ばれる家庭用のワンピースもある。ホテルで友達と会う時に着るワンピースを家事の時には着ない。ホームドレスでホテルに行けば視線を気にする事になる。
すなわち、晴れ着、普段着と言っても、そこに一線を引くことはできず、普段着の中でも不断に連続的にアイテムが並んでいる。生活の中で「晴れ」から「普段」まで不断で連続的なシーンに合わせて、洋服はアイテムが揃えられている。
「今度の同窓会は、このワンピースを着て行こうかしら。だけどちょっとおしゃれすぎるから、こちらのワンピースの方がぴったりかな。」
と言うように、そのシーンに合った洋服を選ぶのがマナーでありセンスの見せどころでもある。では、着物の場合はどうだろうか。
昔は(洋服がなかった時代)皆着物を着ていた。そしてその時代も今と同じように様々な生活のシーンがあった。晴の場も普段の場も。もっとも庶民や農民は、結婚式や入卒式など今ほど晴の場があったとは思えないが、それでも晴の着物、普段着の着物は持っていただろう。そしてそれらは、今ほどアイテムが豊富ではなくても、どんなシーンにも合わせた着物が用意されていただろう。
しかし、現代の着物のアイテムと言えば、留袖、振袖、訪問着、附下、小紋、紬・・・と言う事になる。そして、それらを着るシーンと言えば、物の本によればはっきりと決められているらしい。「きものTPO早見表」なるものが、その格付けをデジタルに決め付けている。
「普段着の着物は?」
と聞かれれば、紬、綿、ウールが思い起こされるが、それらを一色反にするのは無理がある。
「結城紬はいくら高価でも普段着です。」
と言う言葉を聞いて、結城紬を着るシーンとウールを着るシーンが同じだと思う人はいないだろう。結城紬は絣柄で普段着であることは間違いないが、同じ立派な絣柄である弓浜絣や久留米絣、広瀬絣とは着るシーンで一線を画していることは間違いない。
「普段着」と言えば、普段着と呼ばれる着物が全て同じシーンで着られるものではない事、「普段の場」は細かく、また不断に連続的な違いがある事を覚えておかなければならない。
皆が着物を着ていた昔、普段にどんな着物を着ていたのだろう。
次の一節は、宮沢賢治の小説「虔十(けんじゅう)公園林」の書出しの部分です。
「虔十はいつも縄の帯を締めて笑って杜の中や畑の間をゆっくりと歩いているのでした。 雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青空をどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたたいてみんなに知らせました。」
宮沢賢治は明治29年の生まれ、昭和8年に亡くなっています。小説の舞台は大正かあるいは賢治が子供の時代の明治末期かもしれません。洋服は既にあったかもしれませんが、地方の田舎では皆着物を着ていたのでしょう。
その虔十は「縄の帯」を締めています。豊かに成った現在、縄の帯など締めている人はいないでしょう。しかし、宮沢賢治が知る日本の社会では縄の帯を締めている人は普通にいたのでしょう。
帯はもともと着物を体に保持する道具です。体に巻き付けた衣を保持するにはひもで結ぶのが最も単純で原始的な方法です。外国では、紐が進化して金具を付けたベルトになりました。
着物を保持する為だけであれば縄や紐で十分にその役を果たします。しかし、そこは日本人の器用さと工夫で様々な帯が創られました。帯は単に着物を保持するための物だけではなく装飾的な意味が大きくなりました。
考えて見れば、帯が着物を保持する物であれば、何故帯を締める時に帯締が必要なのでしょう。帯は本来の役目を越えて装飾的な意味が大きくなり、着物と帯を保持する為に帯締めが登場したのでしょう。
帯には着物を保持する役割と装飾的な役割が求められるようになりました。晴の着物、普段着の着物を考えて見れば、晴の着物に締める帯はより装飾的な意味が大きいと言えます。反対に普段着の帯は本来の役割である着物を保持するための役割が大きいと思えます。袋帯は帯締めを必要としますが、普段着や浴衣に締める半巾帯は帯締めを必要としません。
私が山形に戻った35年ほど前に、店の在庫に「六寸帯」と言うのがありました。袋帯や名古屋帯は幅が八寸です。半巾帯と言われる小袋帯や浴衣帯は四寸です。六寸と言うのはその間にあります。母に聞いてみると、一部を折って胴に巻き、貝ノ口に結ぶと、お太鼓のようなちょっと大きな結びができたらしいです。もちろん帯締めは使いません。晴と普段の間、と言うよりもちょっと立派な普段着の帯だったのかもしれません。
虔十が締めている縄の帯が最も普段着とすれば、舞子さんが締めるような丸帯は最も晴の帯と言えるでしょう。舞子さんの丸帯はもはや工芸品の域にあるものです。
縄の帯(現代では使われませんが)から丸帯まで、その間には色々な、無数と言っていいほどの帯の種類があったのでしょう。〇〇帯といった名称などなくても、長い紐や布を利用して帯にしていたかもしれません。
子供が浴衣に締める浴衣帯を「三尺帯」と称する事があります。(地方により呉服屋により異なるかもしれません。)この「三尺帯」の名称の由来は、「概ね長さが三尺」と言うところから来ています。素材はと言うと、メリンスや綿の生地を切って折りたたんで締めたようです。子供が締める帯は、当時既製品化などされていませんでした。普段着に締める帯は、その本来の目的に合わせて作られていたものだったでしょう。
今日、帯と言えば呉服屋さんで売っているものです。袋帯や名古屋帯、染帯、半巾帯、兵児帯など、呉服屋の店頭に並んでいます。着物に合わせる帯は事細かに決まっており(通説ではそう流布されています。)
「この着物に合わせる帯を・・・」
と着物を呉服屋に持ち込めば、即座にその着物に合わせられる(と思われる)帯を出してくれる。少なくても今呉服屋の店頭に並んでいる着物であれば、それに合わせる帯は直ぐに目の前に現れる。逆に帯を持ち込んで、
「この帯にはどんな着物が・・・」
と言えば、即座にその帯を合わせられる着物が目の前に現れる。合わせる着物や帯がなければ、呉服屋に飛び込んでお金を出せば困ることはないように思われる。
さて、今回お客様に相談されたのは、普段着に合わせる帯である。着物は麻生地の古着を仕立て替える。そして、着るのは買い物など極普段の場で着るので、それに合わせる帯は、と相談された。電話での相談である。
麻生地の着物と言えば、上布(越後上布、能登上布、宮古上布等)、小千谷縮が頭に浮かぶ。しかし、上布は今は大変高価である。結城紬と同じように「いくら高価でも普段着」である。普段着には間違いないけれども、お太鼓の帯を締め、買い物に着て行く人は極少ないだろう。
小千谷縮であれば、真夏の街着にするか、浴衣として着るかである。街着であれば、上布と同じように八寸などのお太鼓を締めの場合が多い。浴衣として着るのであれば、博多の紋織半巾帯や紗献上半巾帯が頭に浮かぶ。しかし、麻の着物を着てスーパーに買い物に行く姿を想像すると、そのどちらでもないように思える。
お太鼓を締めてスーパーに買い物に行く・・・今はそういう人もいるだろうけれども、着物が普段着であった時代には、そうではなかったように思える。半巾帯を締めてスーパーへ・・・それはあるかもしれない。しかし、今私の店にある浴衣用の半巾帯と言えば、博多の紋織、紗献上、ミンサーなどである。強いて進めればそれらの帯になるけれども、昔はそのような普段着に皆が皆博多の帯を締めたのだろうか、と言う疑問が湧いてくる。縄の帯と言う事はないだろうけれども、正絹の博多帯よりはもっと普段の帯を締めていたのではないだろうか。
現代着物のシーンで普段着と呼ばれるものは確かに普段着の範疇であることは間違いない。しかし、呉服屋の店頭に並んでいるのは、普段着の一部でしかない。その昔、普段着とて着られていた着物の幾つかが残り「普段着の着物」として店頭に並んでいる。
そしてそれらの普段着の着物は(昔の目で見れば)特別扱いされている。いや、「特別扱いされた普段着が残った」と言っても良いだろう。
「結城紬はいくら高価でも普段着です。」
と言い囃されても、結城紬を本当の意味での普段着で着ている人はいない。結城紬を着て洗濯をする人はいないでしょうし、スーパーに買い物に行く人もいないだろう。いるとしてもきちんとお太鼓を締め、正装ではないにしてもよそ行きの普段着の感は否めない。
結城紬とは言わずに、他の紬も同じである。普段着の紬であっても、紬を着るシーンは、俗に言う普段着の意味からは離れてしまっている。
以前、着物の雑誌を読んでいたら、某きものの通と称する人が次の様な事を書いていた。
「もはや着物を着るのは全て晴の場になっている。従って紬も晴の場でも着る事ができる。」
これは私にはとても受け入れられない主張である。着物の市場がどんなに細ろうとも、縮小しようとも、標本の様になってしまおうとも標本には全て肩書があり、それらは長い歴史と伝統に裏打ちされている。
しかし、現代着物を着る場は、全てよそ行きの場になってしまっているのはあながち嘘ではない。昔着ていた普段着の多くが櫛の歯が抜けるように脱落し、現代に残っているのはよそ行きの普段着である。 業界で、「普段に着物を着よう」と言う事も叫ばれているが、それも今店頭に並べられている普段着を拡販しようと言う試みがほとんどである。
もしも、昔の人が普段着でこの世に現れ、私の店に来て
「この着物に締める帯はありますか。」
と聞かれたとしたら、私は何を勧めて良いのか分からないかもしれない。勧められる帯はないかもしれない。
本当の普段着はどこへ行ってしまったのだろう。