全日本きもの研究会 きもの春秋終論
Ⅳ きものを取り巻く問題 ⅵTPOで着物は崩壊しないか
「こんな議論はもう終わりにしよう。」
「いつまでこんな議論を続ける気だろう。」
「こんな議論に私は交ざりたくない。」
私はこのような気持ちでいる。「こんな議論」とは、きもののTPOに関する議論である。
いつどのような着物を着たらよいのか。どの着物にどの帯を合わせればよいのか。これは誰でも気になるし、よく学んでいただかなければならない。しかし、このような議論が着物を崩壊させるのではないかと思うことがある。
次は私の質問コーナーに読者から寄せられた質問の一節である。
一人の年配の女性が、私の着物と帯のコーディネートを見て、
「あら、あなたコレは間違えている。ダメよ、せっかく大島着ているのに、大島が泣くわよ。まだあなたは着物をよく知らないのね。紬はね、織の着物だから、染めの帯じゃないと。そしてどんなに高くても紬は普段着扱いよ。」と・・・(初対面で公衆の面前で・・・泣)」(よくある質問513.いわゆるコーディネートについてhttp://www.ykya.co.jp/yokuarusitumon/511-520/513/ys.htm)
着物に関して何故このような言葉が出るのか私にはまったく分からない。見ず知らずの人に説教をするこの方は着物のことを全て知っている人なのだろうか。そうでないだろうことは容易に想像がつく。
「紬には染帯以外締めてはいけない。」と言うのがこの人の主張のようです。そして、それが絶対であるという言い方をしています。果たしてこれは真実でしょうか。紬に織の帯をしている人はたくさんいます。この主張は明らかに間違っています。
この例は極端ですが、これと似たような議論があちらこちらでされています。それらの多くの議論ではどちらにも軍配を上げられないような事で口角泡を飛ばしています。どちらも自分の説が正しいと譲らず、結論が出るはずもありません。
議論をすることは良いことです。真実を探求することは必要で、私もそれは大好きです。
「火星に生物はいるのか。」と言う命題があったとしましょう。
「火星に生物はいる派」と「火星に生物はいない派」は、それぞれ証拠を持ち寄りながら議論することになります。最新の観測データを元に自分たちの説が正しいことを主張するでしょう。証拠の如何によりどちらかの説に偏り、また他の証拠によってそれが否定されることもあるでしょう。そして、次第に真実に近づくことになります。そして、その先には確固とした真実が存在します。つまり、真実は火星に生物がいるかいないかのどちらかだからです。
確固たる真実がある場合、議論は大変有用です。お互いに真実に近づこうとして議論しているのですから。
さて、着物のTPOに確固たる真実はあるでしょうか。全国の人が、あるいは日本人、着物を着る人が守らなければならない真実とはなんでしょうか。私は、その真実はあると信じています。しかし、それは、巷で議論されていることとは全く別物です。
「織の着物に織帯を合わせて良いのか、悪いのか。」それは議論する価値に値しません。というよりも、議論には馴染まない命題です。この命題について少し考えてみましょう。
先に申し上げたように、織物の着物に織帯を締める人はごく普通にいます。紬に博多献上帯を締める人はいます。それは世間一般に認められています。
命題を否定する場合、一つの反例を揚げさえすればその命題が否定されることは、数学を勉強した人であればわかることです。「紬に博多帯」の反例を揚げることで「織の着物に織帯を合わせて悪い。」の命題は否定されたことになります。
では「織の着物に織帯を合わせて良い。」
が正しいのか、と言えば、きもののTPOはそれ程単純なものではありません。
「織の着物に織帯を合わせて良い。」
が正しいとすれば、
「どのような織の着物でも、どんな織帯でも合わせることができる。」
と言うことになります。これは真実でしょうか。
同じように
「訪問着には袋帯を合わせなさい。」
と言われたとします。では、訪問着にはどんな袋帯でも合わせられるのでしょうか。袋帯には非常に格調の高いものもありますし、普段着用の紬の袋帯もあります。
「訪問着には袋帯を合わせなさい。」
というアドバイスに従って、染の訪問着に紬の袋帯を締める人はいないでしょうか、その可能性は否定できません。
「織の着物に織帯を合わせて良い。」
が正しいとは言えても、それには条件が付きます。つまり必要十分条件を満たしてはいないのです。
表題に挙げた「TPOで着物は崩壊しないか」の一番目の心配は、非常に単純なルールが流布されてはいないか、そしてそのレベルで議論されてはいないか、ということです。
着物初心者に対するアドバイスが、単純であれば、それを鵜呑みにした人たちがとんでもないTPOを振りかざす可能性が出てきます。口頭でのアドバイスもそうですが、きものTPO早見表など活字化されたものは、その可能性が高くなります。頭のどこかに「活字は真実を伝えている」と言う先入観があるでしょうから。
次に心配なのは、着物のTPOを語る人は自分の説が絶対であると信じて疑わない人が多いように思えます。自分の説を信じているばかりではなく、他人の説には耳を貸さない人たちです。
例に挙げた
「紬には染帯以外締めてはいけない。」
の人は、誰からそのような事を教えられたのかはわかりませんが、その説が絶対であり真実であると信じて疑わないようです。
そういった人たちはいくつかのパターンに分けられます。
一番目は真実を知らずに自分の知識が絶対だと思っている人。つまり嘘を真実と思っている人です。この人たちは問題になりません。嘘を信じている訳ですから。
二番目は、自分が教え込まれたことが唯一正しいと思っている人達です。教えられた事が真実を含んでいるにしても、それとは異にするしきたりがあるということを認めようとしないのです。日本中のしきたりは一様に画一的なものではありません。地方により、地域により、また家によってしきたりは違うものなのですが、どうもそれを認めたがらないようです。
そのような人同士の議論はかみ合うわけがありません。しきたりの違う人たちが議論することは、日本人と西洋人が形式的な礼儀について議論するようなものです。
日本では畳の上では立って話をするのは失礼とされています。西洋では目上の人の前では立つのが礼儀です。どちらが正しいのかを議論することに意味があるのでしょうか。
きもののTPO、きものの礼儀はもっと深いところにあります。何を着るかと言った形式的なものは、その末端の結果にすぎません。きものを着るという本質的な意味を議論するのであれば良いのですが、正解のない議論をしても始まりません。それが議論で終われば良いのですが、他人を卑下する材料に使われてはこれからきものを着ようとする人達は着物から離れてゆく要因となるでしょう。
「あなた、着物はそんな着方をしてはいけませんよ。」
「その着物にその帯は合いませんよ。」
「あの人、着物の事よく知らないのね。」
そんな議論はもうやめにしませんか。そんな議論が着物の文化を破壊していることに気が付いてもらえませんか。