明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 きもの春秋終論

Ⅵ.きものつれづれ 28.これから着物とどう付き合うべきか

きもの春秋終論

 今呉服業界では様々な変化が起こっている。それは、呉服業界に限らないのかもしれない。情報や流通が発達し、これまでなかった事が起こり、今迄の常識が通じなくなっている。そしてそれらは短いサイクルで起こっている。昨年と同じことをしていたのでは、今年は全く通じない、と言う事をしばしば経験する。

 先日、小物の商社の方と話をしていた。

「最近いかがですか、ご商売の方は。」

商売上では儀礼的な挨拶である。

「いや呉服関係は全然よくありませんが、レンタルが良いんですよ。」

 確かに、レンタルの着物や浴衣が伸びているという話はよく聞く。京都や浅草に行けば、いかにもレンタルと思えるような井出達の人に良く出合う。外人さんも多く、特に中国の人達に人気の様である。

 その小物屋さんは小物からプレタの着物や浴衣も扱っており、レンタル用のポリエステルの既製品も多く扱っている。

「今年はレンタルに助けられました。」

 もちろん綿の既成浴衣も扱っているのだけれども、今まで売れていた既成の綿浴衣は今年は散々だったという。

「昨年は売れていたんじゃないですか。」

そう聞くと、

「ええ、昨年は売れましたが今年は全然ダメでした。本当にレンタルに助けられましたよ。」

そして更に、

「浴衣が売れないと言っても、若い人たちが浴衣を着なくなったわけではないんです。」

 通常、物が売れなくなるのは、その商品の需要が減少するからである。若い人たちが浴衣を着なくなれば浴衣の需要が減少し、売上は減る。しかし、今はそうではないという。

「少し前は、若い人が浴衣を捨てるという話がありました。」

 その話は以前私も聞いたことがある。セットで3000円くらいの浴衣を買い、彼女と花火を見に行く。Gパンで行き、途中で浴衣に着替える。帰りはまたGパンTシャツに着替えるが、浴衣を畳むこともできず、面倒くさいのでゴミ箱に捨てて行く。花火大会の後、会場のごみ箱には浴衣が捨ててあるという話である。

 昔は安い浴衣と言えども、一枚一枚手で染めたものなので、そこそこの値段もしたし、それを捨てると言う事はなかった。現代の技術革新が創った安価な浴衣のなせる業なのだろう。その小物屋さんの話には続きがあった。

「しかし、今の若い人達は浴衣を捨てるようなことはしなくなったんです。」

 品行方正な若者が増えてきた、と思いきや。

「若い人は、浴衣でも着物でも次々と回すんです。」

 最初、私は意味がよく分からなかった。

「いらなくなった浴衣や着物、もらった着物、小物でもなんでも、皆メルカリやオークションに出して処分するんですよ。」

 もう三十年も前から古着の業界が活気づいている。しかし、当時は着物を古着に出すのは極一部の人達だった。わざわざ古着屋さんに着物を持って出向いて値踏みをしてもらって売って来る。そのような手間は万人のできるものではなかった。

 しかし、今日情報産業の発達によって誰にでも簡単にできるようになった。着物や浴衣に限らず、3000円で買って、いらなくなったものは500円ででも処分できれば良い。あわよくば1000円で処分したい、という希望が簡単に手続きできて換金する事ができるようになった。

 持っている浴衣が不要になれば即座に処分する。購入する方は、「どうせ一回しか着ないから」とか「安けりゃ安い方が」と言う思いで購入し、用を足せばまた処分する。そう言ったサイクルができつつあるらしい。

 小売屋から市場に出た浴衣は、市場の中でグルグル回りながら浴衣の需要をカウントしてゆく。その結果小売屋から市場に出る浴衣の数は減少するという仕組みである。

 浴衣を売る側、業界からすれば大変困った話である。売上の減少が業界をしぼませてしまう。しかしこの事は、浴衣を売る側、浴衣を購入する側双方で、もっとよく考えなければならない課題である。

 まず、浴衣をオークションなどで処分する行為は悪い事ではない。むしろ、使わなくなったものを他人に使ってもらうというリサイクル、即ち物を大切にしようという行動だと捉える事ができる。

 且つて江戸時代には完全なリサイクル社会だったという。壊れた茶碗を欠け継で直し、破れた着物は欠け剥ぎで直して使った。生活用品は、何でも完全に使えなくなるまで使っていた。物は豊富ではないが、生活に困ることはなく、それ程不便は感じなかったかもしれない。

 それに比べて今日は、大量生産・大量消費と言う資本主義のサイクルに組み込まれ、もしもこのサイクルが機能しなくなると、忽ち不況・不景気になり生活が困難になってしまう。

「物を大切にしよう」と言う掛け声とは裏腹に、まだまだ使える多くの物が捨てられている。

 私が今乗っている車は、9年間乗っているが、その前の車は24年間乗っていた。使いやすい車だったこともあるが、大した故障もなかったので乗り続けていた。最後はスピードメーターの誤差が許容範囲を超えてしまった為、新しい物と交換しなければならなくなった。
「交換してください。」

と言ったものの、既に10年以上前に絶版となった車である。新しいメーターと交換するには50万円以上掛かります、と言われ流石に諦めて新車に乗り換えた。今にして思えば、乗り続けていれば骨董価値が出たかもしれない。

 周りを見回すと、まだまだ乗れる車が廃車処分されている。しかし、もし私の様に皆が20年以上乗り続けたら、自動車産業は成り立たなくなってしまう。

 同じように、3,000円の浴衣を10年も20年も着ていられたら、呉服業界、中でも浴衣を扱う業者はたまったものではない。浴衣の売れ行きは激減し、実際にその兆候が表れ始めている。

 物を大切にする事と、資本主義社会の原動力である大量生産大量消費は相反する事の様に思えてくる。物を大切にする気持ちを尊重しつつ、業界が(産業が)活気づく方法はないのだろうか。

 ここで、私は、本当に豊かな生活とは何なのかをもっと考えるべきと思う。現代の社会は十分に豊かになったはずであるが、使い捨て大量消費の風潮から、決して豊かな社会とは言えない面がある。

 呉服よりも身近な食料も大量に捨てられている。日本国内では年間632トンもの食料が、いわゆる「食品ロス」として捨てられていると言う。これは、一人当たり毎日茶碗一杯分の御飯にあたる。何故そんなに大量の食糧を捨てなければならないのか。もっと有効に消費できないのだろうか。

 居酒屋での宴会では、「飲み放題〇千円コース」と言うのがある。PTA等の宴会では価格も手ごろで人気がある。しかし、このような宴会に出ると、つくづく考えさせられることがある。

 供される品数も多く、飲み物は注文しただけ持ってくる。しかし、宴会が終われば、大量に料理が残っている。まだ手を付けてない料理も数多く見られる。飲み残しのビールや酒も多く、何ともったいないと思う。

 出された料理は、決してまずくはないが、皆の目に留まらない物ばかりで積極的に食べようとする人は少ない。酒のつまみ、と言う程度だけれども、それにしては量が多い。居酒屋では、量が多い事をアピールしているのかもしれない。しかし、完食してゆく人は稀だろう。

 もっと品数を少なくして、誰でも箸を付けたがるような料理を出した方が良いと思うのだがどうだろう。同じ金額を支払うのであれば、量は少なくとも、美味しかったと完食した方がより豊かな生活だと思うのだけれど。

 同じことは呉服にも言える。

 3000円の浴衣が大量に生産され市場に出回って行く。当然ながら広幅の安い綿生地にプリントしたものである。一部は捨てられ、またタンスの底に蓄積され、他はリサイクルされてゆく。

 次の年には、既に浴衣を持っている人の購買意欲をそそる為に、奇抜な柄やデザインの浴衣が創られ市場に投入される。それ以前の浴衣も含めて、一度しか着ない浴衣や一度も着ていない浴衣が沈殿してゆく。

 浴衣に限らず着物も同じである。

 着物の売上は減少している。その大きな原因は、需要すなわち着物を着る人、着る機会が減少していることにある。それでも呉服業界は売り上げを維持せんと様々な努力をしている。着物を着ない人にも売る為の商法は多くの問題を起こしている。そして、着物の生産そのものにも問題が及んでいる。

 今、最新の技術や人件費の安い海外品によって着物は以前に比べて非常に安く生産する事ができる。3000円の浴衣もその成果物である。ただし、それらは昔から創られてきた着物とは、似て非なるものである。

 一方では需要、販売が減り、また一方では安く生産できるのが今日の呉服業界である。その結果、呉服業界では相反する二つの行為が行われている。

 一つは安価な価格で着物が販売されている。これは悪い行為ではない。着物を着たい人が、着物を安く購入する事ができるので、着物を普及させるのによい事かもしれない。ただし、業者によっては、その成因をつまびらかにせず、高価な着物を安く売っているかの様に消費者にアピールしているところもある。

 もう一つは、安い着物であるにも関わらず、さも高級品の様に見せかけて、とてつもない利益を得ようとする行為である。型物の訪問着を作家の作品と偽る。プリントの江戸小紋を型染の江戸小紋と偽って販売する。この場合、プリントにはない耳をわざわざ型染であるかのように染めているものもある。

 どちらも呉服業界の販売不振を量的に利益の上で確保しようとする行為だけれども、業界として最も大切なことが抜けている。

 それは、昔から培ってきた本当の染や織の技術がないがしろにされていることである。安く生産された物で売上や利益を確保しようとしているが、本当の技術を持った染屋織屋、そしてそれを支える職人たちは幕の外に置かれている。

 呉服の未来を本当に考えるならば、それらの技術の継承を第一に考えなければならない。大量販売、大量消費は需要の減少する今の呉服業界にはなじまない。ここで考えなければならないのは、呉服業界が小さく成ろうとも、健全な形で次世代に伝える事である。ではどうしたら良いのだろうか。

 着物は昔から世代を超えて大切にされてきた。リサイクルやオークション等と言う言葉が飛び交う現代の遥か昔から着物はリサイクルが行われてきた。

 着物の構造を見れば分かる事だけれども、自分の着物を自分よりも背の高い人が着られる様に、身丈は「内揚」をして仕立て替えできるようにいる。背の高い子や孫にも仕立て替えられる工夫である。

 八掛は表生地よりもせり出している。八掛の色を見せる、と言う意味もあるけれども、裾が擦れた時、八掛が擦り切れるように出来ている。表生地が擦り切れない為の工夫である。八掛は擦り切れても、仕立て替えの時にずらせば同じように仕立てられる。裾が破れても、ぼかしの八掛でも三回は仕立替えが可能である。

 着物には他にもリサイクルに耐える工夫がなされている。とは言え、着物をリサイクルするのはそれ程簡単ではない。袷の着物を仕立て替える場合、洗い張りをして仕立てる事になるので5~6万円かかる。洋服の感覚から言えば高価かもしれない。

 3000円の浴衣を仕立て替えする人はいないだろう。安い着物であれば、新しく買った方が良いと思う人もいるだろう。しかし、昔はそれ程手間やお金をかけてもリサイクル(仕立て替え)する意味があったのである。

 昔は、洗い張りや仕立てを自分でやる人もいた、と言う事情もあるが、着物はリサイクルする価値が十分にあったと言える。

 農家の嫁が亭主の為に機を織り仕立てる。機を織ると言っても、既成の糸がある訳ではない。糸から作ったかもしれない。糸をつむいだり、麻を割いて糸を作る。そして、それを機に掛けて生地を織り、一針一針仕立てたのだろう。そう言った一連の仕事は、夜なべ仕事で、どれだけ手間を掛けて着物が完成したのだろうか。

 当時は自給自足であり、人件費と言う概念もなかった。その手間を考えれば大変な価値である。現在、結城紬や大島紬、越後上布など昔ながらに織られている織物が高価なのは十分にうなずける。昔の農民、時代劇に登場するような虐げられた農民は、実は結城紬や大島紬のような現在で言えば高価な紬あるいはそれに準じた織物を着ていたと言える。

 その着物は大切に着られ、汚れれば洗って仕立て直す、裏地を取り換えて仕立て替える等の工夫をしながら着られていた。現代の様に、数回来たら飽きてしまったとばかり放って置いたり、オークションに出すと言う事はなかった。

 長い間着た着物は、子どもに譲ると言う事もあっただろう。これは現代でも行われている。私の持っている着物の八割は、父や祖父の着物であり、中には祖母の着物を仕立て替えたものもある。既に五十年以上経つものばかりである。

 長い間着てボロボロになり、どうしても仕立て替えられない着物もある。しかし、その場合は、子供用に仕立て替えもしただろう。最後は、もったいない話だけれども、雑巾にでもしたかもしれない。

 一枚の着物を雑巾になるまで使う、と言うのは、いかにも貧しい昔の農民の姿の様に思える。しかし、その着物は、現代で言う高級紬(「超」が付くような)であり、それを大切に着回したと言う事である。

 プリントの安い浴衣を数度着ただけで捨てたり、またオークションに出し、また新しいプリントの安い浴衣を買う。インクジェットの安っぽい着物を次々に世に送り出し消費者の購買を誘う、と言った現代の着物事情と良く比べて見たらよい。

 例えて見れば、昔は高級車を大切に修理しながら何十年も乗り続けたようなものである。しかるに現代は、安い軽自動車を毎年乗り換えているようなものである。どちらがより豊かな着物生活なのだろうか。

 現代の着物業界は、既に量的な拡大を求められないところに来ている。日本の着物を健全な形で後世に伝え、業界も健全に生き残るためには業界として態度を改めなくてはならない。そして、消費者に着物の本当の良さを啓蒙する事である。

 業界として消費者に着物の本当の良さを紹介し、理解してもらう。さすれば自ずから伝統的な職人の居場所も後世に残される。決して高価な着物を買ってくれと言う訳ではなく、捨てても惜しくない様な着物は創らず、より長く愛着を持っていただけるような本物の着物を創り販売する事である。

 消費者には量的、価格的な満足感ではなく、質的な満足感を味わっていただけるようにできない物だろうか。

 プレハブの住宅に住み、スクラップアンドビルドを重ねるのではなく、しっかりとした職人が造った住宅に末永く住んでもらえるように。

 江戸時代に比べて現代は、経済的には遥かに恵まれているはずなのに、着物についてはなぜプレハブ住宅に住む如く文化を享受できないのだろうか。今日の業界の姿勢が一番問われることであるが、消費者も本当の着物の文化を考えていただければと思う。

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