全日本きもの研究会 きもの春秋終論
Ⅴ 呉服の常識と言われていることは常識か? ⅰ衣替えについて
日本には「衣替え」という言葉がある。諸外国でこれに類する言葉があるのかどうか知らないが、この「衣替え」と言うのは日本の文化であろう。
日本では洋服でも季節により衣替えがある。女子高の制服では六月になるとそれまでの濃地の制服から夏用の白い制服に替えるところが多い。もっとも最近は制服を廃止している学校もあるので余り季節感がなくなってきたようにも思える。
私の母が旧制女学校の頃、六月一日になると一斉に夏服に替わったが、間違って冬の制服を着てくる人が必ず一人くらいいたという。その時は恥ずかしいので白い体操着に着替えていたという話を聞いたことがある。
私も小学校の頃、六月になると学帽に白いカバーを付けていた。子供の時分はそれが何を意味するのか、また何時から白いカバーを付けるのかは考えてもみなかった。しかし、これも「衣替え」である。四季の変化の激しい日本ならではの文化なのだろう。
さて、きものはご存じの通り「衣替え」については殊の外厳格に決められている。(と言われている。)「衣替え」は季節の変わり目ごとに行われる。
十月から五月までは袷。六月は単衣。七月八月は薄物。九月は単衣。そして十月にはまた袷を着る。と言うことになっている。「と言うことになっている」と言うのは、これらのルールは何時決められたのだろうか。そして、どれほどの根拠を持っているのだろうか。更に、どれだけ厳格に守らなければならないのだろうか。これについて深くメスを入れてみたい。
日本の文化は季節に敏感である。この事に私は全く異論がないし、むしろ世界に誇れる日本の文化だと思っている。季節による変化はきものばかりではない。夏になると簾を下げる。障子戸を簾戸に替える、といった事は昔行われていたが今は余り見られなくなった。
座布団カバーを夏は麻に替えることは今も行われているだろう。商家では冬用の濃地の暖簾を何は白地に替えたりもする。夏場の食器は清涼感のある器、あるいはガラス器を使ったりする。
衣食住全ての面において、日本の文化は季節とは切っても切れない。というよりも季節の変化が生活をより豊かなものとしている。これは日本人誰でも感じている事だろう。
これらの季節による衣食住の変化は何のために行われるのだろう。それは、第一義には実用性の為である。風の通らない障子戸を風の通る簾戸に替えるのは、夏を涼しく過ごすためである。麻の座布団は涼しい。
冬は暑いうどん。夏は氷を浮かべた素麺。寒い日は暑い鍋を囲む。いずれも寒い日は暖かく、暑い日は涼しく過ごすための生活の変化である。
これらの変化の第二義的な意味としては、見た目の暖かさ、見た目の涼しさがある。夏に使うガラスの器は、見る者に清涼感を感じさせる。冬の暖かいしつらえが訪問する者を和ませてくれる。
見た目の暖かさ、涼しさは日本人のもてなしの心に通じている。もてなしに季節感を取り入れ、もてなす者の心遣いを表している。
日本人の季節の変化は、以上のように実用的な意味と見る者に季節を感じさせるという二つの意味がある事を忘れてはならない。
さて、「衣替え」の話に戻ろう。「衣替え」はある日を境として一斉に行われる。(事になっている。)「寒くなってきたからそろそろストーブを出そう。」とか、「暑くなったので扇風機を出そう。」と言うのとは異なり、その年の暑さ寒さにかかわりなく「衣替え」は行われる。実用的な意味から考えると合理性に欠けるようにも思われる。
しかし、ある日を境とする、と言う考え方は中国より伝わった節句に由来しているのかもしれない。「そろそろ」とか「大体この辺で」というのではなく、暦の上での節目を大切にする考え方である。ある日一斉に事を成すことで暦の節目を皆が感じられるのである。
その節目というのは、現在きものでは六月一日、七月一日、九月一日、十月一日と言うことになっている。
ではこれらの日がきものにとって節目とされたのはどのような根拠を持っているのだろう。もともとの節句は陰陽五行説に従って合理的?に決められたもので、誰も異論をはさむ余地がない。ではきものの節目はどのようにして決められたのだろうか。またそれは絶対的なものなのだろうか。
江戸時代初期に来日した宣教師ロドリゲス・ツヅによると江戸時代に武士たちは衣替えの時期を次のように定ていたらしい。
「日本人の間では、夏季は五月五日(端午)に始まって、八月最後の日までで、その間は単衣すなわち帷子を着る。秋の初めにあたる九月最初の日から八日まで、袷と呼ばれる裏地をつけただけの衣類を着る。そして、九月九日(重陽)から次の新年の三月の最後の日までの間は詰め物をした衣類を用いる。四月の最初から五月の四日までは袷を着る。」
そして、最後に、
「そしてこれらの儀式はきわめて正確に守られる」
とある。
この記述を見ると、秋の袷の期間が異常に短いように思えるし、今のサイクルとは違っているように見える。
こう言った伝統を今日まで引き継いでいるのであるが、さて昔の衣替えの時期はそのまま現代に引き継がれているのだろうか。答は否である。
江戸時代の暦は太陰暦である。太陰暦と太陽暦は一致しない。同じ日、例えば正月は同じ日ではない。時間差が生じていると言えるが、その時間差は年によって一定ではない。
平成28年1月1日は太陰暦では11月22日であるが、平成27年1月1日は11月11日である。太陰暦の特定の日を太陽暦に比定しようとした場合、必ずしも同じ日にはならない。従って江戸時代の衣替えの日をそのまま現代の太陽暦に当てはめようとした場合、衣替えの日付けが毎年違うことになる。まして閏月のある年はどのように比定したらよいのだろう。
衣替えは暑さ寒さへの対処であるから、暑さ寒さをつかさどる太陽と地球の位置関係で定めようとするならば太陽暦で特定するのは可能である。そうした場合、江戸時代あるいはもっと以前から日本で行われていた衣替えは、暑さ寒さとは関係のない(太陽との位置関係とは関係ない)太陰暦に従った全く不合理であることになる。
しかし、私は日本人が守ってきたしきたりが不合理であるとは思わないし、否定しようとは思わない。そこには「暦の上では」という日本人らしい考えがある。季節の変わり目を「最高気温が何度になったら」とか、「最低気温が何度になったら」また、「初雪が降った日をもって・・・」というような不定の変わり目ではなく、「何月何日をもって・・・」という方が四季のはっきりしている日本ではより生活に季節感を与えるのだろう。
そういう意味では、太陽暦であろうと太陰暦であろうと暦の特定日をもって衣替えすることを私は否定しない。ただし、誰が定めたのかは分からないが、現代の六月一日、七月一日、九月一日、十月一日という衣替えの日付けは昔のそれとは違っているということは間違いない。
更に昔は今と違って季節の衣装は必ずしも三様(袷、単衣、薄物)ではなかった。ロドリゲス・ツヅの記述を見ると年間三種の衣装を着たのは事実だが、それらは、袷、単衣、薄物ではなく、袷、単衣、綿入(詰め物をした衣類)であった。
また、同じポルトガル人宣教師ルイス・フロイスによると、平安以来貴族の装束は年二季即ち二種類しかなく、四月一日から九月末までを夏の装束、十月一日から翌年三月末日までは冬の装束と定められていた。
以上を考察すると、衣替えの時期は時代により変遷があったことは否めないし、その要因として衣装の形態も関係したであろうことは十分に考えられる。しかし、一貫して日本人は暦の上で衣替えをするということを大切にしている。
したがって定められた時期に衣替えしなくてはならないのは日本の伝統と言えるが、さてそれはどれだけ厳格に守られてきたのだろう。また現代、どれだけ守らねばならないのだろうか。
ロドリゲス・ツヅの書いた「そしてこれらの儀式はきわめて正確に守られる」と言う言葉は何を意味するのだろうか。
「日本のきものは季節感を大切にするので、その季節にはそのきものを着ます。」とよく言われる。袷の季節には袷を。単衣の季節には単衣を。薄物の季節には薄物を、と言う意味である。ロドリゲス・ツヅの「そしてこれらの儀式はきわめて正確に守られる」と言う言葉を鵜呑みにするとすれば、それは厳格に守らねばならない。
現在の決まりでは、5月31日までは袷を着て、6月1日からは単衣を着る。しかし、これが現代のきもの事情の障害となっている。
年によっても天候によっても違うが、5月と言えば相当に暑い日もある。北国山形でもそうなのだから、東京や西日本では殊更暑い日が多いだろう。しかし、暦の上では袷の季節である。「5月は袷」とばかり、袷のきものを着ている姿を見かける。
5月のお茶会で袷のきものを着て汗だくになってお茶を運ぶ姿を見ると、「さぞ暑いだろうな。それよりもしみ抜きが大変だろうな。」といらぬ心配をしてしまう。お茶を出す方は我慢しながら袷のきものを着ているが、お茶会に行く人の中には、「袷のきものは暑いから洋服で行こう。」と、きものを持ってはいても洋服を着て行く人もいる。
同じように10月でも暑い日もあり、6月や9月でも肌寒く単衣では寒い日もある。それでも厳格に衣替えに従いなさいというのは、折角きものを着ようとする人の気を萎えさせ、折角きものを着ようという人達が洋服に流れてしまう。
ここで大きく疑問に思うのは、昔は本当に「これらの儀式はきわめて正確に守られ」てきたのだろうか。太陰暦では暑さ寒さの誤差は太陽暦よりも大きいはずである。暑いのに我慢して綿入れや袷を着ていたのだろうか。寒くなっても寒さに震えて単衣を着ていたのだろうか。誰しもが思う非常に素朴な疑問である。
先に揚げたポルトガル人、ロドリゲス・ツヅの書「日本教会史、第十六章第、三節、日本人が更衣する年間の季節について」の冒頭に次のような文章がある。
「日本人およびシナ人の間における主な訪問は、一年の四季、すなわち春夏秋冬に、それぞれの時季の一定の変わり目に行われ、季節と習慣に従い、その季節に合った別の衣類に着更える。それは、それぞれの季節における自然の気候に応じて、単衣を多くしたり少なくしたりするのである。
身分の高い人か同輩の者かを訪問する場合は、常にその季節に用いられる衣類を着て行くのが、たとえ他の衣類の上に着るにしても、よい身だしなみであり礼儀にかなうとされる。これを下に着ては使い途が誤っている。」
この文章を私は次のように解釈する。
「日本人の衣類は季節ごとに替わる。礼を尽くすべき場(身分の高い人か同輩の者かを訪問する)では、常にその季節に用いられる衣類を着て行かなければならない。上に着る物(おそらく羽織を意味する)は必ずそれ(季節に合ったもの)を着なければならない。中に着る物が季節の衣類であっても、上に着る物が他の衣類であってはならない。」
つまり、礼を尽くす場では上に着る物は(羽織の事であろう)その季節のものを着なければならない。わざわざこのような記述をするということは、中に着る物を季節のきもの以外のきものを着ることもあったということになる。すなわち、袷の時季であっても暑い日には単衣を着ることもあった。そして、礼を尽くす場では上に着る物は袷を着ていた、と解釈できる。
暑い袷の時期に単衣を着るのは、体温を保持して体を快適な温度に保つための実用的な意味を持つ。一方袷の時期に、袷のきものを上に着るのは、見る者に季節を感じさせるという日本人ならではの季節感の表れである。
衣替えは江戸時代や昔の日本の風習を踏襲していると言えるが、現代と当時の背景や環境の違いをもっと考えてみる必要がある。
ロドリゲス・ツヅの伝える日本の衣替えの風習は、おそらく武士階級の人達のそれではなかっただろうか。当時は男性社会で、一般の女性が社会の表に出る機会は今とは比べ物にならない程少なかっただろう。宮中や殿中では高位の女性が日本の風習、衣替えを厳格に守っただろうことは想像できるが、庶民に至っては女性たちには今でいう晴の場という生活シーンはどれだけあっただろうか。豪商の奥方や大地主の奥方の中には宮中や殿中に準ずるような人達もいただろうが、庶民は季節の衣替えに対してどのような意識を持っていただろうか。
町人や百姓が着ていたのは普段着である。労働着と言っても良いかもしれない。普段着、労働着であっても季節の衣装は有っただろうし衣替えもしただろう。普段着の目的は、より動きやすく快適なことである。労働に適し体温を適度に保持する役割が一番である。これは日本のきものに限らない。世界中の衣装は、生命の生存を第一義としている。文化の発達とともに次第に装飾性やその他の機能が付加されてきた。「季節感を楽しむ」というのも、少なからず文化を享受して初めて生まれることである。
とはいえ、江戸時代の町人、百姓も少なからず文化を享受して衣替えの意識もあっただろう。しかし、普段着である限り実用性(暑さ寒さへの対策)が優先であったことは否めない。武士であっても最低限「上に着るもの」を季節に合わせてきていたのだから、町人、百姓はなおさらのことである。寒ければ暖かい衣装を、暑ければ涼しい衣装を着ていたのは間違いない。
それでも季節感には気を使ったかもしれない。涼しい夏には、重ね着をしたとしても白っぽい着物を、暖冬の時には袷の着物の下は薄着をする、といったように。
着物は体温を保持するのが第一義であるが、それに季節感を重ねるところが四季のはっきりした日本の文化であり着物の妙でもある。昔の人たちはそれを巧く調和させていたと思えるのである。着物以外に着るもののなかった当時は、そうであったと考えるのが妥当である。
何だか難しそうであるが、何のことはない洋服の世界ではそれがまかり通っている。衣替えを境に代わる学生服、制服を着ている学生は、冬服でも暑ければ中は半そでということもある。私が中学の時、暑い日に裸の上に学生服を着て粋がっている人がいた。それこそ実用的な意味と見る者に季節を感じさせるという二つの機能を果たしているということである。
翻って現在の着物のしきたり(と言われている)はといえば、5月までは袷、6月は単衣、7、8月は薄物ということになっており、それが厳格に行わなければならないかの如く流布されている。衣装は実用性が先に立つはずなのに形式だけが独り歩きしている。
もしも国会で
「日本人は着物以外は着てはならず、しきたりは厳格に守るように」
と決議されたとしたら日本人の多くが熱中症で倒れるだろう。そういう事実に遭遇すれば、現在流布されている着物のしきたりが形骸だけを追い如何に常軌を逸しているかがわかるだろう。
色々と書いてきたけれども、衣替えについて私の思うことを要約すれば次のようである。
- 日本の着物は季節感を大切にする。日本は温帯に位置し、四季がとりわけはっきりとしているのが季節を文化に取り入れた原因である。着物を着る者としてこれは大切にしなければならない。
- 衣替えは昔から行われてきた。その時期は暦の上で決められた特定の日をもって行われた。ただし、その暦とは旧暦(太陰暦)であり、現代の暦とは齟齬が生じている。
- 現在の衣替えの特定の日(6月1日、7月1日等々)は、だれが決めたかは知らないが、昔から定められた日ではない。しかし、コンセンサスをもって特定したならばそれは守らなければならないが、その成り立ちは歴史的な根拠がないことは覚えておいてもよさそうである。
- 季節によって着るべききものの種類は、現代のそれとは完全にはオーバーラップしない。麻が着物の素材の主流であった時代から、綿や絹が多用される時代とは当然着る物も違ってくる。また、着物の形態も昔とは異なり(綿入れなど)、現代の着物にそのまま比定するのは無理がある。
- 着る物の第一義の目的は暑さ寒さから体を保持する為であり、装飾性や季節感は第二義的なものである。
- 昔は、礼を尽くす場(晴れの場)では、季節感は厳格に守られ、その季節に着るべき着物をまとったが、第一義的な意味でそれがそぐわない場合は、最低限表に着る物だけ季節の着物を着ていた。
以上のような分析から、私は着物の季節感、衣替えについては次のように考えるべきと思う。
着物を日本人の衣装として今後とも伝えて行きたいと思うのであれば、衣装本来の目的を失ってはならない。つまり、暑い時には涼しく、寒い時には暖かく着れる環境でなければ誰も普段着物を着ようとは思わないだろう。
季節感は大切にしなければならない。その意味で私は、現在の衣替えのタイムテーブルを否定しようとは思わない。しかし、そこには暑さ寒さをコントロールする工夫が必要である。昔は武士が袷の時期には羽織だけでも袷を着た、というような本当の季節感の意味を考えなければならない。
晴れの場やお茶会など礼を尽くす場では、見た目袷を着ても涼しく着る工夫をしてもかまわない。襦袢には元々袷も単衣もあったけれども、袷で襦袢を仕立てる人は、今はほとんどいない。「袖無双」という袖口のところだけ袷に見せかける仕立てが一般的である。同じように着物にも胴抜きという胴裏を使わない仕立てもある。余り一般的ではないけれども袷の時期を涼しく過ごす一つの工夫である。もう一歩進んで、「袖無双」のような着物も仕立てられるかもしれない。
また、下着を薄くする工夫もできる。私は5月に着物を着る時には麻襦袢を着ることがある。袷の時期ではあるが、単衣襦袢でも暑い、メリンス襦袢ではもっと暑い。しかたなく麻襦袢を着ている。式服として着る場合は半襟を変える。あたかも無双の襦袢を着ているかのように。
絽の色無地を仕立てた際、お客様から「絽の袖を着物に縫い付けてください」と言われたことがあった。襦袢は着ずに半襟を付けた広襟の肌着を着るのだそうだ。なるほどこれも涼しく着る工夫である。
日本の季節感を壊さずに快適に着る工夫を考えてはいかがだろうか。
さて、以上は式服(礼を尽くす場)の場合である。普段着においては、現代のしきたりは著しく着物を着る気持ちを萎えさせている。
そもそも普段着こそ衣装の本来の目的を追求しなければならない。冬には「着物は暖かくてよいですね。」夏には「着物って涼しいよね。」という言葉が出てこなければ着物を着ようとする人の増加は見込めない。
昔の庶民は普段間違いなく、暑ければ単衣、寒ければ袷を着ていただろう。それは自然なことである。いくら暑くとも「今は袷の時期だから」と言って汗だくになって袷を着ているのは滑稽以外の何物でもない。
「このところ暑くて、もう単衣を着ちゃいましたよ。」「今年は冬が早く来そうで、寒がりの私は先日袷を出して着ています。」そんな会話が飛び交っても何もおかしくはない。
ただし、日本の着物である以上季節感を忘れてはならない。着物の身だしなみの基本は「他人に不快感を与えない着方」をすることである。不快感を与えないだけではなく、それとなく季節を感じさせるような着方が大切である。季節外れ(現代のしきたりはずれ)の袷、単衣はどのような着こなしをしたらよいのか、考えるのもまた着物のきこなしの楽しみ方ではないだろうか。