明治00年創業 呉服と小物の店 特選呉服 結城屋

全日本きもの研究会 きもの春秋終論

Ⅵ.きものつれづれ 42 きものは自由?

きもの春秋終論

 店にお出でになったお客様が次の様な事を話されていた。
「着物のチェーン店に行ったときに着物を勧められました。着物と帯を合わせてくれたのですが、本当にその組み合わせで良いのかと思ったんです。すると店の人は「着物は自由なんです。どんな風にコーディネイトしても良いんです」と説明してくれました。本当にそうなのでしょうか。」

 その方は、それまで余り着物を着たことがなく、着物の事を良く知らなかった。それでも、チグハグ?なコーディネイトに疑問を持ったようだった。

 着物のしきたり、TPOについては一般に、とても厳しく、事細かに決められている様に言われている。季節によるTPO、どの場面ではどの着物を着るのか。また、着物と帯の組み合わせなど、着物初心者にとっては辟易するほど着物のしきたり、決まりは厳しいと思われている。

 しかし、「着物は自由です」と言う説明を聞いて驚かない人はいないだろう。果たして「着物は自由」なのだろうか。

 巷の着物姿を観察すれば、「着物を自由に着る」人達は結構いる。

 浴衣に伊達襟を付ける。浴衣帯に帯締めを締める。・・・これらの昔は考えられなかった着方は、着物のメーカーが先導しているふしがある。また、男性が赤い半襟を掛ける。女性が男性の羽織を着る。普段に紋付を着る、喪服を着る等等。これらは、それぞれが個性的なファッションをアピールしていると言う事なのだろうか。

 厳格な着物のしきたりとは正反対の着物の着方が巷にあふれているのも事実である。

 その着物のチェーン店の販売員は、その後者を擁護する動きと見て良いのだろうか。伝統に則しない着物のしきたりを堂々と店頭で奨励していると見て良いのだろうか。実は、そうでもないように思えるのだが、この事をじっくりと考えて見たいと思う。

 着物を離れて、洋服もその他の民族衣装も歴史的時間軸も全て超越して真っ新な状態で一般的な衣装を考えて見よう。
「衣装は着る人の自由」・・・「誰が何を着ようと自由」・・・そう問われた時、応えは「YES」の一言である。基本的に「何を着るか」は個人の自由である。

 男性が赤い着物を着ようが、スカートを履こうが、また女性が男性の格好をしようが規制する決まりはない。個人の自由で衣装を決められないのは、閉ざされた空間で規則に縛られる場合である。即ち「〇〇高等学校では登校時、指定の制服を着る事」と言う校則があれば、着るものは制限される。しかし、開かれた空間では「何を着るかは自由」である。

 日本国では着る物を制限していない。「日本国民は全員国民服を着る事」と言うような法律ができれば日本国はたちまち閉ざされた空間となり「着る物の自由」は奪われる。あたかも戦時中の日本かSFの世界の様であり、日本国がそのようにならなければ良いと思っている。

 日本では戦後しばらくたってから、ヒッピー族や竹の子族など、それまでの価値観とは違った衣装で闊歩する人達が現れた。価値観を異にする人達からは嫌悪されたりもしたが、法律で規制されることもなく存在していた。

 開かれた世界では、「着る物は自由」が原則である。ただし、その原則は何時いかなる時でも万人に許容されるか否かは別問題として考えなければならない。

 さて、着物の世界ではどう考えればよいのだろう。チェーン店の販売員の「着物は自由です」の言葉をどう捉えたら良いのだろうか。

 着物を考える場合、個人の自由とは別に、「着物は長い歴史によって醸成された」と言う事実を踏まえなくてはならない。現在の着物の在り様は、日本の長い歴史の上に立っている。その結果、着物の着方、しきたりについて時として厳しい見方がされているである。

 着物のしきたりに関しては何度も触れてきたが、実に事細かく定められている様に言われている。しかし、詳細に観察すれば、皆が皆同じではない。茶道の流派によって作法が違うように、人によって場所によって、着物のしきたりは微妙な食い違いもある。しかし、これまた茶道の流派の違いと同じで、全て理にかなったしきたりなのである。

 その違いは、地方により、家族により、また職業によって違う場合がある。しかし、「そのどれが正しいのか」と言うのは議論に適さない。問題は、そのしきたりが日本の歴史が育んできた日本のしきたりのベクトルと同じ方向に向いているか否かが大切である。

 葬式に孫娘が振袖を着て参列するしきたりの地方があるのを以前紹介した。黒の喪服ではなく、葬式で華やかな振袖を着るのを驚く人もいるかもしれないが、孫娘が故人を送る気持ちの顕れであることは間違いない。敬意を持って故人を送る、日本人のしきたりのベクトルに一致しているのである。

 してみると、「何を着るかは個人の自由」ではあるが、日本人が日本人として着物を着る場合には、歴史を背景とした日本人の心を無視する事は出来ない。長年日本人が育んできた着物のしきたりは厳然としてあると言える。しかし、そのしきたりは、事細かに全国統一されたものではない。日本人が創り上げてきた慣習そのものが着物のしきたりなのである。

 茶道の作法で、お茶を頂くときに茶碗を回す動作がある。右に回すのか左に回すのか、何回回すのか、と戸惑ってしまうがそれは流派によって違う。ある流派の人が他の流派の人が茶碗を回すのを見て、
「自分が習った作法とは違う。」
そう思うかもしれない。しかし、茶碗を回す作法の本質は、
「ご亭主が大切にしている茶碗の正面に口をつけるのをはばかる」
為である。茶碗を何回、どちらに回そうが、本質に叶っているのである。本質をわきまえる事が大切であって、自分と違うからと非難するのは筋違いである。
 
 着物のしきたりも同じで、その本質をわきまえる事が大切である。それは捉えどころがなくとても難しい事である。形式的なしきたりを守る方が余程簡単かもしれない。その意味では、「着物は自由」ではない。

 では、・・・話を戻そう・・・その着物のチェーン店の販売員が言った「きものは自由」は、何を意味しているのだろう。何を意図して言ったのだろう。

 日本人が育んできた本質的な着物のしきたりを無視して言っているのであれば、それは革新的である。それまでの価値観をすべて否定して・・・と言うのは、ヒッピー族や竹の子族に通じるものがある。彼らとて決して否定されるべき人達ではない。それまでの価値観から脱して新しい文化を築いて行く原動力となる場合も稀にある。

 ビートルズの長い髪はその後の男性のヘアースタイルに大きく影響した。もっともビートルズのロングヘアーはそれ程長くはなく、イギリスの中世貴族の髪よりは短かったようにも思う。しかし、その後男性の髪の毛は段々長くなった。私も学生時代には、髪の毛を肩まで伸ばして粋がっていた。

 個人が時代に逆らう行為は散見できる。しかし、「きものは自由」と叫んでいるのが、全国に多くの店舗を持つ呉服店の販売員である。その呉服店は、全社員に「きものは自由」と言う教育をしているのだろうか。

 男性の髪の毛が短かった時代に、全国チェーンの床屋が「男性の髪の毛は長いのが流行です」と客に勧めるようなものである。

 その呉服店は、信念を持って「きものは自由」と社員に教えているのだろうか。そんな事はないだろう。もしも、そうだとしたら正統派?のお客様は寄り付かなくなるだろう。高額な着物を購入する人達の多くは正統派?であろうから。

 では何故、お客様に「きものは自由」と言うのか。理詰めで論を展開してきたが、その理由は実に単純だと私は思っている。それは「きものは自由」と言えば着物が売り易い。ただそれだけの理由である。

 着物のしきたりは日本の歴史が育んできた目に見えない確かなしきたりがある。本質は単純なものだけれどもそれを具体的に説明しようとすると複雑になり、多くの知識と経験が必要になる。

 私も35年呉服屋をしているが、まだまだ経験不足の感は否めない。お客様が求める問いに全て応えられる自信もない。他の職業同様にその道で満足に仕事をするには多くの知識と経験を要するのである。

 しかし、「きものは自由」の一言で全てが許されることになる。何を着せようが何を合わせようが、何を勧めようが何を売ろうが、知識と経験の裏付けは必要ない。

 更にもう一つ踏み込めば、誰でも着物を売ることができる。着物を着たことがない人でも、経験のない人でも、着物の名前を知らなくても着物の販売員に成れるのである。

「何を着るかは個人の自由」が原則ではあるが、それは個人レベルでの話である。着物を売る人間は、着物の本質をお客様に説明し、その上でお客様が何を着るかを自由に 判断する。そのプロセスが壊れれば、日本の着物のみならず日本の文化は瓦解するのではないだろうか。

関連記事
「続きもの春秋 4. 若者ときもの」
「続きもの春秋 9. 伝統文化を伝える難しさ」
「続続きもの春秋 5. 呉服屋は文化の創造者になりえるか」
「続続きもの春秋 10. きものを着るという事」
「きもの春秋終論 Ⅲ-ⅰ常識・しきたりとは何か」

着物のことならなんでもお問い合わせください。

line

TEL.023-623-0466

営業時間/10:00~19:00 定休日/第2、第4木曜日

メールでのお問い合わせはこちら